戦前、日本軍のインテリジェンスは世界標準を超えていたと話すのは、産経新聞論説委員の岡部伸氏。諜報の神様と呼ばれた小野寺信(まこと)が、情勢分析する際に最も役立ったのは、ペーター・イワノフと名乗り、通訳官として日本の陸軍武官室に勤務していたポーランドの大物インテリジェンスオフィサー、ミハウ・リビコフスキからの情報でした。
※本記事は、岡部伸:著『至誠の日本インテリジェンス -世界が称賛した帝国陸軍の奇跡-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
6週間で終わるというヒトラーの誤算
ドイツは、ソ連を奇襲するバルバロッサ作戦を1941年6月に開始しました。しかし、ドイツにとって誤算だったのは、その直前にユーゴスラビアを攻めたイタリアを支援せざるを得なかったことで、作戦開始が2カ月遅れてしまったことです。奇襲こそ成功したものの、退却しながら降伏しないソ連の赤軍の強さは想定外でした。
小野寺は、ドイツがソ連侵攻作戦を始めて約2カ月後の9月を境目に、ドイツの戦力が落ちたと家族に話しています。ウクライナを中心に雨季が訪れ、戦車などの機械化部隊の進撃が止まるという、想定外の事態に見舞われたためでした。
バルバロッサ作戦の開始が2カ月遅れ、例年より早く雨季がきた9月が分水嶺となり、進撃速度が落ち、冬将軍が来たのです。
現地スウェーデンの新聞や雑誌などから情報を入手する「オシント」を活用して、夏の装備しかないドイツ軍が苦戦していることを知った小野寺は「作戦開始が2カ月遅れても、なお6週間で終わるというヒトラーの読みは大甘だった」と家族に語っています。
小野寺が、ドイツ劣勢の判断を下した情勢分析で最も役立ったのは、ペーター・イワノフと名乗り、通訳官として日本の陸軍武官室に勤務していたポーランドの大物インテリジェンスオフィサー、ミハウ・リビコフスキからの情報でした。
リビコフスキは、欧州中に張り巡らせた地下情報網から部下が伝えてきた「退却しながら降伏しない、赤軍の想定外の強さに手を焼くドイツの脆さ」を、小野寺に伝えました。
ソ連軍が冬装備した新たな部隊を次々に増強し、夏に戦った軍隊と入れ替えて冬季反攻作戦を進めていたのに対し、ドイツ軍は「6週間でモスクワを陥落させる」と夏服のまま飛び出し、兵士たちは凍てつくロシアの大地で劣勢に立たされていたのです。
情報提供者で“生涯の友”でもあるリビコフスキ
小野寺の最大の情報提供者で、生涯の友となるリビコフスキは、帝政ロシアの支配下にあったリトアニアで1900年に生まれました。
18歳でポーランド軍に入隊し、参謀本部第二部(情報部)でドイツ課長を務めましたが、1939年の独ソのポーランド侵攻で祖国を失ってラトビアの首都リガに逃れ、日本の陸軍武官室に匿(かくま)われます。
その後、1940年8月にラトビアがソ連に併合され、武官室が閉鎖されると、リトアニア領事代理だった杉原千畝に満州国パスポートを発給してもらい、満州生まれの白系ロシア人としてストックホルムの陸軍武官室に移りました。大戦前から日本陸軍とポーランド陸軍には、諜報で深い協力関係があったためです。
日本がのちに真珠湾を攻撃し、両国が交戦国同士となっても、リビコフスキは小野寺との協力を続けました。