産経新聞論説委員の岡部伸氏によると、戦前の日本は「謀略は誠なり」の精神で、世界初の情報士官養成所「陸軍中野学校」を開設しているのであるから、日本人にはインテリジェンスの潜在能力があるはず。「枢軸国側諜報網の機関長」と連合国に恐れられた小野寺信(まこと)。小国の情報士官と協力、連合軍を震撼させた“至誠”の諜報活動を展開した「小野寺機関」を紹介します。
※本記事は、岡部伸:著『至誠の日本インテリジェンス -世界が称賛した帝国陸軍の奇跡-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
黙殺された30通の「日米開戦反対」電報
「日米開戦絶対不可ナリ」
1941年12月8日、日本軍が真珠湾を攻撃し、マレー半島に上陸して米英を相手に始まった大東亜戦争。その開戦前夜、欧州から東京の陸軍参謀本部に緊急電報が届きました。
発信地は、北欧スウェーデンの首都ストックホルム。発信者は、陸軍の駐在武官だった小野寺信でした。その後も、小野寺から開戦反対を訴える電報が30通以上届けられました。
「欧州客観情勢判断するに、開戦は断固すべからず。ドイツを頼るのは危険」
小野寺は、当時の国際情勢と日本の置かれていた状況を、歴史の“答え”を知る今日の私たちの目から見ても的確に把握しています。では、どのようにして情報を得ていたのでしょうか。その一つが、新聞や雑誌などから情報を得る「オシント(OSINT)」の有効活用です。
小野寺は、中立国スウェーデンの首都ストックホルムで入手できた現地紙や、英米紙誌を丹念に読み込み、独ソ戦でドイツが苦戦する事実をつかんでいました。その情報をもとに、当時「ドイツのソ連制覇は確実」と観測していた参謀本部に対して、日米開戦反対の電報を送り続けたのです。
連合国にも恐れられた“諜報の神様”・小野寺信
オシントもさることながら、小野寺が得意としたのは、人間的な信頼関係を構築した協力者から秘密情報を得る「ヒューミント(HUMINT)」でした。
小野寺は当時、北欧のストックホルムで難民となったポーランド、エストニア、フィンランド、ハンガリーなど小国の情報士官(インテリジェンスオフィサー)たちを、自分の協力者にすることに成功していました。
機密費で彼らに生活資金、生活物資を援助し、家族ぐるみで時間をかけて親密になり、良好な関係を築き上げていったのです。その結果、大戦の後半には、小野寺は連合国側から「枢軸国側諜報網の機関長」と恐れられる存在になっていました。
小野寺がポーランドをはじめ、全欧に築いた情報ネットワークには、法王庁(バチカン)も関与しています。その一端には「命のビザ」を出して6,000人のユダヤ人を救った外交官、杉原千畝もいました。
同盟国ドイツは、ドイツ保安警察(SIPO)が1941年7月に作成した報告書で「日本の『東』部門――対ソ諜報の長は、ストックホルム陸軍武官の小野寺で、補助役がケーニヒスベルク(現・カリーニングラード)領事の杉原千畝と、ヘルシンキ陸軍武官の小野打寛」と分析しています。
小野寺に協力した小国の情報士官たちには「ソ連に祖国を侵略された」という共通項がありました。日露戦争で、憎きロシアを打ち負かした東洋の日本への親近感があったからでしょうか、彼らは祖国再興を夢みながら小野寺を信頼し、日本と密接な関係を構築しました。
1944年にストックホルムの小野寺を訪ねた、海軍の扇一登(おうぎかずと)大佐は「小野寺さんは他国の情報将校から“諜報の神様”と慕われていた」と戦後、回想しています[伊藤隆、影山好一郎、高橋久志『扇一登(元海軍大佐)オーラルヒストリー』(政策研究大学院大学/2003年)]。
こうした小国の情報士官から得た独自情報をもとに、小野寺は快進撃を続けたドイツ軍の戦力低下の事実をつかみ、「まことに絶望的な情勢」として開戦反対を参謀本部に訴え続けたのです。
インテリジェンスには、謀略や破壊工作などの「人を騙して情報を掠める」イメージがありますが、小野寺は「情報活動で最も重要な要素の一つは、誠実な人間関係で結ばれた仲間と助力者」だと『小野寺信回想録』で語っています。その信念のもとで、他国の情報士官と「人種、国籍、年齢、思想、信条」を超え、誠実な“情(なさけ)”のつながりを築いていったのです。