諜報の神様と呼ばれた小野寺信(まこと)は、ポーランドのミハウ・リビコフスキからの情報などで、1940年代欧州の戦局をリアルに把握していました。しかし当時、日本の中枢は、それらの情報を拒絶し、大東亜戦争開戦へと向かってしまったと産経新聞論説委員の岡部伸氏は指摘しています。
※本記事は、岡部伸:著『至誠の日本インテリジェンス -世界が称賛した帝国陸軍の奇跡-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
英国MI6よりも小野寺を優先した協力者たち
リビコフスキのほかに小野寺に有力情報を提供したのが、エストニア陸軍参謀本部第二(情報)部長から参謀次長を務めたリカルト・マーシングでした。小野寺にとって、最も親密で、最良の協力者だった人物です。
マーシングは、1940年にエストニアがソ連に併合される直前、ストックホルム駐在武官に転身し、ドイツ陸軍に転じて諜報活動を行う部下を束ねていました。その傍ら、スウェーデン軍部とも親しく付き合い、英国対外情報部(MI6)のエージェントとしても活動しています。
マーシングが小野寺に提供していた情報の多くは、MI6に対するものよりも精緻だったようです。キース・ジェフリー著『MI6秘録〈下〉 イギリス秘密情報部1909-1949』(高山祥子訳 筑摩書房/2013年)によると「1944年末、小野寺の東京への電報(ブレッチリー・パークはこれを読んでいた)には、マーシングがSIS(通称MI6)よりも小野寺のほうに情報源について話をしていることが見て取れ、彼の信頼性にあらたな懸念が生じた」とあります。
そのため、MI6は大戦中にマーシングを解雇して報酬の支払いを中止しましたが、戦後の尋問調書によると、小野寺から謝礼として毎月、1000~1500クローネ(当時の為替レートで1クローネは約1円なので現在の価値で100~150万円)を日本の敗戦時まで受け取っていたようです。
ちなみに、連合国が大戦の勝利を決定づけた1944年6月のノルマンディー上陸作戦に関しても、小野寺はその直前の5月にマーシングから、フランスのドゴール派の情報士官の情報として「遅くとも秋までに必ず実行される」と知らされており、それを参謀本部に伝えています。
準備されたヒトラーの対ソ戦闘指令書
さて、そのマーシングの情報によれば、「バトル・オブ・ブリテン」(英独航空戦)で惨敗したドイツは、制空権を握れず、Uボートの撃沈が相次いだ大西洋でも制海権を握れず、英本土上陸作戦は実現不可能な状況でした。
さらに、小野寺のもとには、対ソ開戦前夜の有力情報が集まってきます。マーシングの部下でドイツ軍に入ったカール・ヤコブセンが、小野寺に「ドイツの情報部に勤める部下が、連日ヒトラーの戦闘指令書を準備し、東プロシア(ソ連が占領していた旧ポーランド領)に行っている」と耳打ちしたのです。
ヤコブセンは、小野寺の上司だった樋口季一郎中将が、1925年から1928年までポーランド駐在武官として勤務していた時期に、同じ駐在武官仲間として過ごしていました。樋口中将の孫で、明治学院大名誉教授の樋口隆一氏によると「祖父はワルシャワでは英米はじめ多くの国の武官と関係を深めた」そうなので、二人は親交があったと考えられます。
ドイツ駐在武官だった1941年1月には、山下奉文(ともゆき)大将が軍事視察団団長として訪独した際、ベルリンの自宅を宿舎兼事務所として提供するなど、日本との縁は少なくありませんでした。