ロシアによる侵攻で、ウクライナ東部のドンバス地方が激戦の舞台となっているが、こうした切り取り工作は第二次世界大戦後の日本に対しても行われていた。産経新聞論説委員の岡部伸氏は、樋口季一郎中将の勇敢な指揮がなければ、北海道は共産主義国家として本州と対立していた可能性が高いと語る。しかし、残念ながら北方領土は奪われ、日本人捕虜はシベリアへ抑留されることになってしまったのです。

※本記事は、岡部伸:著『至誠の日本インテリジェンス -世界が称賛した帝国陸軍の奇跡-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

北海道占領を断念したスターリン首相

第二次世界大戦の末期、当時のスターリン首相は、誇り高きロシア人にとって、アジアの黄色人種の日本人に屈したことを最大の汚辱と受け止め、復讐する機会として北海道占領を狙っていました。実際、対日参戦の直前には、サハリン(樺太)南部やクリル(千島)列島の解放のみならず、北海道の北半分の占領を指示していました。

これに対してトルーマン大統領は、1945年8月18日に千島列島領有を修正しましたが、北海道北部のソ連占領は認めないと拒否しました。すると、スターリン首相はそれを無視して、南樺太の第八七歩兵軍団に北海道上陸の船舶の準備を指示します。

▲国後島 出典:route134 / PIXTA

しかし、第五方面軍の占守島(しゅむしゅとう)での抵抗で、スターリン首相の北海道占領計画は出足から躓き、狂いが生じました。

ソ連軍の作戦行動命令書では、占守島は一日で占領するはずでしたが、21日に停戦協定が結ばれ、日本軍が武装解除したのは23日。作戦の遅れで停戦合意となったことで、スターリン首相は22日に北海道占領作戦を中止します。

ソ連軍はさらに千島列島を南下しましたが、北千島南端の得撫島(うるっぷとう)の占領完了は31日までずれ込みました。9月2日に日本は降伏文書に署名し、国際法上でも終戦が確定しました。樋口中将が率いた第五方面軍の占守島での抵抗がなければ、ソ連軍は9月2日までに北海道になだれ込んでいた可能性が高かったのです。

孫の樋口隆一氏は「南樺太と千島列島を短期間で占領し、前線基地として北海道になだれ込む計画だったのでしょう。スターリンが欲しかったのは不凍港の釧路。記録では北半分とされているが、あわよくば北海道全島を占領しようとしたのでしょう」と分析します。

北海道占領を断念したスターリン首相は8月28日、南樺太の部隊を択捉島に向かわせ、国後島、色丹島、歯舞諸島を次々に占領しました。

日本固有の領土である北方四島の占領だけは確実にしておこうと考えたのでしょうか。北海道に送り込む予定だった部隊を、腹いせのように北方四島に送りました。占守島のような抵抗もなく、ソ連軍は北方四島を無血占領しました。

そして、スターリン首相は9月3日に出したソ連国民への布告で「日本に不法に侵略されたサハリン(樺太)とクリル諸島(千島列島)を解放した」と宣言したのです。

▲占守島の戦い

「日本人将兵50万人を捕虜とせよ」という極秘司令

北方四島の不法占拠は現在に至り、日露に北方領土問題が暗い影を落とし続けています。

守備隊の奮戦で出端(でばな)をくじかれ、北海道占領を断念せざるを得なくなったスターリン首相がもうひとつ行ったのが、日本人捕虜のシベリアへの抑留でした。

トルーマン大統領に北海道占領の断念を伝え、占守島で日本軍が武装解除した日に、スターリン首相が「日本人将兵50万人を捕虜とせよ」という極秘司令を出しました。

千島のみならず、旧満州や朝鮮、樺太などにいた日本人57万5000人がシベリアの収容所に強制連行され、その1割にあたる約5万4000人が、過酷な労働や食糧不足で死亡したとされます。これは明らかに「武装解除した日本兵の家庭への復帰」を保証したポツダム宣言第九項や、捕虜の扱いを定めた国際法に明確に違反しています。

樋口中将の反撃の決断がなければ、ソ連が北海道に侵攻し、日本が分断国家となっていた可能性が高かったことは間違いありません。満州や南樺太で起きた略奪や子女に対する暴行や強姦が、北海道においても繰り返され、青年男子はシベリアに強制連行されたことでしょう。

北朝鮮やドイツ統合前の東ドイツのように、共産主義独裁国家が北海道に誕生し、津軽海峡を挟んで、同じ民族同士で対立していたであろうことは想像に難くありません。

▲札幌神宮参拝(樋口家提供)