ウクライナ侵攻によるロシアへの制裁の報復として、解決への道がさらに険しくなりそうなロシアとの北方領土問題。第二次世界大戦当時のソ連首相・スターリンは、ポツダム宣言を受諾した日本を占領・統治するために、攻撃を止めようとはしなかったのです。産経新聞論説委員の岡部伸氏が、日本統治に向けてソ連が取った行動と、それに対する日本軍の姿勢を解説します。
※本記事は、岡部伸:著『至誠の日本インテリジェンス -世界が称賛した帝国陸軍の奇跡-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。
スターリンの北海道侵攻の野望を阻止した
日本とロシアの北方領土交渉は、現在も膠着しています。ロシアが平和条約締結の前提に「日本が第二次大戦の結果を受け入れろ」と頑なに主張し続けているためです。そこには「大戦で、北方四島はソ連(ロシア)領土となったことをまず認めよ」というロシア側の強硬な姿勢があるわけです。
日本固有の領土であり、一度も外国の領土になったことのない北方四島を、ロシアはソ連時代から不法占拠し続けています。日本からすれば「第二次大戦の結果を受け入れること」はできません。
そもそも、対日参戦したスターリン首相が最初に目指したのは、北方四島ではありませんでした。マッカーサー元帥の回顧録などによると、北海道の北半分のみならず、北海道全域を実行支配し、さらには東北以北の領有と、首都東京の分割統治まで視野に入れていたようです。
当時のソ連が、ドイツや朝鮮半島と同様に、日本の分割支配を目論んでいたことを考えると、背筋が凍ります。南樺太と千島列島でソ連軍と対峙して撃退した札幌の第五方面軍司令官、樋口中将の決断がなければ、スターリン首相の北海道占領、そして日本を分断国家にする野望が実現していた可能性は高かったのです。
「ソ連軍、占守島に不法侵入を開始す」
1945年8月9日未明、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して満州に侵攻しました。南樺太でも同月11日、ソ連軍が日本領への攻撃を始めました。
スターリン首相は、半年前の2月に開かれたヤルタ会談で、ルーズベルト米大統領やチャーチル英首相と、日本に参戦する見返りとして、南樺太の返還と千島列島の引き渡しを了承する密約を交わしていました。
8月14日、日本はポツダム宣言の受諾を決め、15日に終戦の詔書が出されました。第五方面軍司令官だった樋口中将は16日、心を平静にし、軽挙妄動を慎んで規律を乱さぬよう訓示しています。大本営は同日、全部隊に「やむを得ない自衛行動を除き、戦闘を中止せよ。18日午後4時までに徹底するように」との命令を出しました。
ところが、南樺太のソ連軍は戦いをやめず、18日深夜零時過ぎ、占守島(しゅむしゅとう)と海上14キロメートルで対峙するカムチャッカ半島の尖端にあるロパトカ岬から、ソ連軍の砲撃が始まりました。千島列島北端の占守島に上陸し、占領作戦を開始して、武装解除を進めていた日本軍を攻撃したのです。
「ソ連軍、占守島に不法侵入を開始す」
北千島方面の第九一師団長、堤不夾貴(つつみふさき)中将から、こんな電報が第五方面軍司令部に入ると、司令部では幕僚たちが顔を見合わせるだけで、しばらく沈黙が続いたそうです。
このときの状況を樋口中将は手記『私の軍人としての最終章』に「『十八日』は戦闘行動停止の最終日であり、『戦争と平和』の交替の日であるべきであった(中略)。しかるに何事ぞ。一八日未明、強盗が私人の裏木戸を破って侵入すると同様の、武力的奇襲行動を開始したのであった。かかる『不法行動』は許さるべきでない。もし、それを許せば、いたるところでこの様な不法かつ無智な敵の行動が発生し、『平和的終戦』はありえないであろう」と書いています。
また、その理由について「ソ連としては『千島占領』をポツダム宣言に基づく日本投降によることなく、自軍交戦の結果としての実力占領なる既成事実を構成せんとしたものと、私は確信するのである」と論じています[ともに『陸軍中将 樋口季一郎の遺訓』(勉誠出版)より]。
令和の時代になっても、ロシアが北方四島の不法占拠を「第二次大戦の結果」とオウム返しに強硬に繰り返す根拠が、樋口中将の指摘する「自軍交戦の結果としての実力占領なる既成事実」を、かつてソ連がつくったことにある気がしてなりません。