家臣を生き埋めにして首を切らせた家康

徳川家康。「戦国三英傑」のなかで、一番残虐ではないように思います。家康は確かに、信長のように大寺院を焼き討ちしたり、婦女子を殺害したりはしていません。また、秀吉のように、卑怯な方法で民間人を処刑したりはしていないと思います。しかし、それでも謀反を起こそうとした大賀(大岡)弥四郎を残忍な方法で処刑しています(1575年頃か)。捕縛された弥四郎は、自分の妻子が磔になっている様をまず見せつけられました。

浜松を引き回され、岡崎に戻されたあとは、牢に入ります。岡崎の街の辻には、穴が掘られていました。そこに弥四郎を埋めるためです。土中に埋められた弥四郎は、指を十本切られ、切られた指を見せられる。続いて、足の筋を切られ、逃げられないようにしたうえで、顔だけ出して、体を土中に埋められたのです。そして、竹の鋸もしくは鉄の鋸で、弥四郎の首を通行人にひかせたのでした。一日のうちに弥四郎は死亡したと言います。

▲徳川家康肖像画(狩野探幽) 出典:ウィキメディア・コモンズ

 大坂冬の陣(1614年)においても、家康は捕縛したスパイのような男の「手足の指を全て切れ。そして、額には(豊臣)秀頼との文字を烙印し、大坂城中に返せ。見せしめとせよ」と命じています。処刑こそされていませんが、手足の指を全て切るというのは、なかなか残酷です。

戦国武将は「野蛮」だったのか?

「戦国三英傑」の処刑法の一端を見てきましたが、このような処刑法を見て「昔の人は野蛮だったんだな」と思うことは当たりません。

明智光秀が波多野氏が籠る丹波八上城(兵庫県篠山市)を攻略したときは、城兵は切り殺されましたが、非戦闘員までは処刑されていません。信長が美濃岩村城を攻めたときも、城主は磔になっていますが、無関係な女・子どもまでは殺されてはいません。非戦闘員まで大量に処刑される事例は、そうそうないように思われます。

敵方に恨みなどをもっている武将にとっては、憎い者を成敗してせいせいしたと思う場合もあったでしょう。しかし、あの信長であっても、何も好き好んで、荒木一族の女性たちを成敗したのではなく、彼女らを不憫に思っていたこと、成敗の目的として、背いた荒木村重を懲らしめる意味合いがあったこと(『信長公記』)も併せて記しておく必要があるでしょう(秀吉の考えについてはわかりませんが、私は秀吉は信長よりもかなり残酷な性格だったように感じます)。

そうした意味において、武将(武士)と庶民の虐殺に対する受け止め方にも、それほど大きな差があったようにも思われません。

そして、現代でも世界中を見渡せば、残虐な方法で殺害され、命を奪われている人々が大量にいるという現実があります。ウクライナ戦争が始まった2022年だからこそ、そのことを深く考えたくなります。