夏といえば怖い話。ここでは怪談話とはちょっと違う、現実にあった戦国時代の「こわい」話を紹介します。学校などで歴史を学ぶ際に出てくる「奴隷」という単語は、どこか海の向こうの話と感じている人も多いのではないでしょうか? しかし日本人も奴隷売買に関わってきているのです。教科書にはあまり載らない「こわい」話を、歴史作家の濱田浩一郎氏に聞きました。
「奴隷ビジネス」に手を染めていた人たち
織田信長の一代記『信長公記』(著者は信長の家臣・太田牛一)のなかには「人売り女の話」が載っています。京都下京の木戸番〔町ごとに区分けされていた際の出入り口となった木戸の番人〕をしている男の女房がいたのですが、彼女は、長い年月にわたって、多くの女性をかどわかして、和泉国堺に売り飛ばしていたというのです。
織田政権で京都所司代を務めた村井貞勝は、この話を聞きつけ、木戸番の女房を捕らえ、尋問します。すると、その女の口からは、自分一人で「80人の女性を売った」との言葉が。
この女は「成敗」されますが、木戸番の女房というある意味、普通の女性がそのような悪事を働いていたことに慄然とします。人を売る、人を買う、いわゆる人身売買は、他にも行われていました。
信長死後、豊臣秀吉の時代、秀吉は伴天連追放令を出します(1587年)。追放令の前日(6月18日)には「明国や東南アジア、朝鮮に日本人を売り渡していることは悪事である。日本において、人の売買は禁止する」との 秀吉の命令が出ています。
これは、在日の宣教師に向けて出されたものです。つまり、秀吉は、日本人の売買に、宣教師が関与していると考えていたのでした。いや、秀吉は宣教師のみならず、商売のために来日するポルトガル人やシャム人、カンボジア人が多くの日本人を連れ去り、奴隷として連行していると考えていました。
よって、秀吉は「遠方に売り飛ばされた日本人を日本に連れ戻すように計らえ。それが難しければ、ポルトガル人らが購入している人々を放免せよ。自分がその代金を払おう」と、宣教師に詰め寄っています。その宣教師は「自分たちも、人身売買を止めさせようと努力してきました。しかし、重要なことは、海外の船が来航する港の領主らが、それを禁止することでしょう」と弁解します。
つまり、自分たち宣教師は、日本人の売買に関係していない。先ずは、日本人を売っている「日本人」を何とかして取り締まるべきだと主張したのです。
しかし、来日したポルトガル人による「奴隷ビジネス」は盛行を極めていました。 特に女奴隷が価値があったようですが、多くの日本人男女の奴隷が、ポルトガルに連行されたことから、ポルトガル国王のドン・セバスティアンは、日本人奴隷の取引を禁止する命令を出しています(1571年)。
この禁止令は、在日宣教師の要望により、出されたとされます。宣教師たちは、広範な日本人奴隷連行が、布教活動の障害になると考えたのでしょう。
しかし、秀吉の時代にも、未だ奴隷ビジネスが盛んだったことを考えると、国王の命令も意味をなしたようには思えません。
天正遣欧少年使節が見た日本人奴隷
さて、天正10年(1582)、本能寺の変が起きた年に、4名の少年が九州のキリシタン大名の名代として、ローマに派遣されます。有名な天正遣欧少年使節です。
その少年たちは、旅の途中で多くの日本人奴隷の姿を目撃します。しかし、彼らの怒りの矛先は、買ったポルトガル人ではなく、売った日本人に向けられています。正使の千々石ミゲルなどは「同国人をさながら家畜か駄獣のように、安値で手放す我が民族への激しい怒りに燃えた」と語ったと言います 。
少年たちは、マカオ・マラッカ・ゴアを経て、アフリカ南端の喜望峰を周り、ポルトガルに入っています。その旅の途中で「多数の男女やら、童男・童女」――つまり日本人奴隷が惨めな境遇にあるのを見たというのですから、アジアや東南アジアにも多数の日本人奴隷が存在していたことがわかります。しかも成人男女のみならず、少年・少女も奴隷として売買されていたのです。
前述の宣教師は、我々は日本人売買に関与していないと弁解していたが、宣教師が「奴隷交易許可状」を出しており、無関係とは到底言えませんでした。
イエズス会宣教師も奴隷貿易に関与していたのです。さて、秀吉による伴天連追放令が出たあとも、イエズス会の要請により、日本人の奴隷取引を禁止する旨(1591年)が出されていますが、厳格に守られたようには見えません。
1603年にも、ポルトガル国王から同内容の禁令が出されているからです。しかも、国王はインド・ゴア市から抗議を受けると「正当な理由があれば、日本人奴隷の取引を禁じるものではない」との意向を示しています。これは、日本人の奴隷取引がどれだけ儲かるものであったかを示しているでしょう。
戦国時代の奴隷になった人々は、ごく普通の人々でした。他国の大名(武将)に攻め込まれ、そのときに捕らえられた男女・子どもが奴隷として売られたりもしていたのです。少しの金欲しさに自分の親や妻、子を売る例もあったようです。
奴隷の値段は二束三文、20~30銭(2〜3千円)で売買されることもありました。現代のアフガニスタンにおいても、人身売買や臓器売買が横行しているようですが、幼い娘を売ることによって得られるお金は16万円ほどだそうです(臓器は約30万円)。安易な比較は慎むべきかもしれませんが、戦国日本の奴隷(人身)売買の酷さ、凄まじさがわかろうというものです。
冒頭に記した木戸番の女房にかどわかされた女性80人も、全員ではないにしても、海外(東南アジアやポルトガル)に売り飛ばされ、悲惨な境遇に落ちた可能性があります。