75年12月、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスが、設立3周年記念のビッグイベント『オープン選手権』を開催した。
世界の大物レスラーを一堂に集め、馬場のプロレス界での力を満天下に示したこの大会。プロレスファンは、超豪華メンバーによる夢の共演に酔いしれたが、これは単なる“プロレスの祭典”ではなかった。その裏には、馬場によるアントニオ猪木に対する“ある意図”が隠されていたのだ。
70年代の日本のプロレスは、言うなれば馬場・全日本と猪木・新日本の存亡を懸けた闘いであった。馬場と猪木は、それぞれ72年に自らの団体を設立。
当初は日本テレビのバックアップによる豊富な資金力と、強固な外国人レスラー招聘ルートを持つ馬場の全日本が倒的に優勢だったが、70年代前半にレスラーとして全盛期を迎えていた猪木は、数々の激闘を展開することで熱狂的な“猪木信者”を増やしていき、徐々に形成を逆転。
勢いづいた猪木は、5歳年上で肉体的に下り坂に入っていた馬場に対し、執拗に対戦を迫っていく。そして74年にストロング小林、大木金太郎との大物日本人対決を制し“実力日本一”の呼び声が高まると、ついに馬場に対し公開挑戦状を送りつけた。
「テレビ、興行権、日時、場所、すべて任せる。立ち給え馬場君。男らしく勝負を決しようではないか」.
しかし馬場は、この猪木の挑発を無視。沈黙を守る馬場には「猪木が怖くて逃げている」という負のイメージが付くことになった。じつは、これこそが猪木側の狙いでもあったのだ。
「馬場と猪木は、共にテレビ局をバックに持つ看板レスラー同士。猪木は直接対決実現が状況的に難しいことをわかったうえで、挑発を続けていたんです。すべては大衆に『馬場は猪木から逃げている。だから猪木のほうが強いんだ』というイメージを植え付けるためにね。プロレスは厳密に言えば“競技”ではないから、どちらがイメージで上回るかが真の闘いでもあったんです」(元『週刊プロレス』編集長・ターザン山本)
『オープン選手権』開催は猪木の挑戦への無言の返答
このときの馬場の様子を、当時、全日本の若手レスラーだった渕正信はこう語る。
「あの頃、猪木さんや新日本の人たちによる、全日本への口での攻撃がすごかったけど、馬場さんが何も言わないから、俺たち若手も言い返してはいけない雰囲気があったよね。俺なんかは『冗談じゃない、来てみろ!』と思ってたんだけど、馬場さんは『相手にするな。そのうちわかるから待っていろ』という感じで、何か策を練っているような様子だったよ」
そして、猪木が公開挑戦状を出した翌年、馬場はついに沈黙を破る。
75年9月、馬場は記者会見を開き、世界のトップレスラー20人前後を集めたリーグ戦『オープン選手権』を開催し、「参加選手については広く門戸を開放し、新日本、国際のレスラーも当然対象となる」と発表したのだ。これは、もちろん猪木の挑戦状に対する無言の返答だった。馬場は「俺と闘いたかったら、オープン選手権に出てこい」と、逆挑発を行なったのだ。
「馬場さんは用意周到な人だから、『相手にするな』と言いながら、着々と反撃の準備を進めていたんだよね。あれだけの人数の外国人トップレスラーのスケジュールを押さえるために、1年がかりで『オープン選手権』を実現させた。そして、外国人だけでなく、大木さんや、国際プロレスも参加させて、『猪木よ、これが俺の返事だ。お前はここに出てこられるのか?』と無言のうちに迫ったわけでしょ? やっぱり、全日本所属選手として『馬場さん、カッコいいな』と思いましたよ」(渕)
馬場の逆挑発に対し、猪木は2週間後の10月13日に記者会見を行ない、正式に『オープン選手権』参戦拒否を表明。「『オープン選手権』に関しては、本日現在、口頭でも書面でも新日本プロレスに対して具体的な申し入れがない。それに年末の日程はすでに決まっており、12月11日には蔵前でのビル・ロビンソン戦もある。アドバルーンだけを上げる、全日本プロレスのやり方は失礼極まりない」と反論した。