闘わずして猪木に勝つ策士・馬場の静かなる反撃

なぜ、猪木は『オープン選手権』に乗り込まなかったのか。もちろん、新日本のエースである猪木が、2週間ものあいだ、自分の団体の年末シリーズを欠場して、全日本のシリーズに参戦するわけにいかないという事情もあっただろう。しかし、理由はそれだけではない。猪木は『オープン選手権』に仕掛けられた“罠”に気づいていたのだ。

当時の馬場の相談相手=フィクサーでもあった、元『プロレス&ボクシング』編集顧問・森岡理右(りう)は、『オープン選手権』に「猪木潰し」の意図があったと、ハッキリと証言している。

「『オープン選手権』は、猪木を黙らせるためにやったんだよ。最初から猪木が出てくるとは思ってなかったけど、万が一、出てきたときのために、外国人のガチンコの強い連中をズラリと揃えた。そして、馬場戦にたどり着くまえに潰してしまえとね。こうすれば、猪木は出てこれないし、もう『馬場が逃げている』とも言えなくなる」(『Gスピリッツ』17号要約)

猪木が、馬場が受けないことを見越して公開挑戦状を送ったのと同じように、馬場もまた猪木が出てこないことがわかっていながら、『オープン選手権』参戦を呼びかけた。そうすることで、「猪木は、さんざん馬場との対戦をアピールしていたのに、いざ、その機会が来たら逃げた」というイメージを植え付けようとしたのだ。

そして、よしんば本当に猪木が参戦してきてもいいように、ガチンコに強い外国人レスラーという“傭兵”を雇った。自らの手を汚すことなく、猪木を葬り去る。策士であり、金と政治力を持つ、馬場ならではの反撃方法だと言えるだろう。

さらに馬場の反撃はこれだけで終わらず、次の一手に出る。

猪木会見の1週間後、今度は力道山未亡人の百田敬子(ももたけいこ)が会見を開き、なんと猪木vsロビンソン戦と同日の12月11日に日本武道館で『力道山十三回忌追善興行』開催を発表。全日本、新日本、国際の各団体に参戦を呼びかけたのだ。

これは、表向きこそ力道山の遺族である百田家主催となっていたが、未亡人の百田敬子は全日本の役員であり、二人の息子も所属レスラーと社員。実際は馬場が、力道山遺族と国際プロレスを抱き込んで、猪木包囲網を敷いた興行だった。

そんな馬場が、力道山の命日である12月15日ではなく、11日に追善興行を開催した理由は、猪木vsロビンソン戦潰しにあることは言うまでもないだろう。馬場はここでも、猪木が出てこれないことをわかったうえで、参戦を呼びかけたのだ。

そして、猪木がロビンソン戦を理由に参戦を辞退すると、百田家は「師匠の十三回忌に顔も出さない不忠者」として、猪木に破門を言い渡し、「今後、力道山の弟子を名乗ることは許されない」という声明を発表した。これらはすべて、闘わずして猪木を封じ込める、馬場が仕掛けた“シュート”だったのである。

間接的な馬場vs猪木の闘い。真の勝者はどっちだ?

これに対し猪木は「力道山先生が墓の下でいちばん喜ぶことは、先生が作ったプロレスリングを繁栄させること。私は力道山先生に喜んでもらえる試合をする自信がある。武道館の追善興行と私のロビンソン戦、どちらが本当の追善試合かは、ファンの皆さんに判断してもらいたい」と、対決姿勢を示した。

そして迎えた12月11日。新日本の蔵前は1万2000人。『力道山追善興行』の日本武道館は1万4500人(共に主催者発表)。どちらも超満員マークが付く成功を収め、興行的には表向き“引き分け”となった。

しかし、実のところはどうだったのか。猪木vsロビンソンは、現在に至るまでプロレス史に残る名勝負として語り続けられる一方、力道山追善興行はその“裏”で行なわれた同日興行としてしか語られることはない。そして、猪木人気はロビンソン戦からさらに上昇していった。

『1976年のアントニオ猪木』と『1964年のジャイアント馬場』という、猪木・馬場両者についての著作を持つノンフィクション作家の柳澤健は、この“1975年の馬場vs猪木”をこう総括する。

「馬場と猪木は終生のライバルだけど、馬場の本当の全盛期は60年代半ば。70年代に全盛期を迎えた猪木に対戦を迫られたとき、すでに衰え始めており、試合内容で猪木に対抗できなかった。そのため『力道山の正統後継者は自分である』という理屈や権威で勝負せざるを得なかったのだと思う。

でも、70年代は世界中の若者たちのあいだで、反権力の空気が充満したリベラルの時代。プロレス界においては、権威に守られた馬場は倒すべき象徴となり、そこに立ち向かう猪木が反逆のヒーローとなったんです」

1975年、馬場はプロレス界での力を満天下に知らしめた。しかし、時代が求めたのは猪木だったのだ。

※本記事は、堀江ガンツ​:著『闘魂と王道 -昭和プロレスの16年戦争-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。