2022年、アントニオ猪木が設立した新日本プロレスと、ジャイアント馬場が設立した全日本プロレスが50周年を迎えた。今も多くのファンの心を熱くする70~80年代の“昭和のプロレス”とは、すなわち猪木・新日本と馬場・全日本の存亡をかけた闘い絵巻だった。プロレスライター・堀江ガンツが1974年の“リアルファイト”を再検証する!

アントニオ猪木の歩み、そして昭和のプロレス史を振り返るうえで、最も重要な試合のひとつ。それが74年3月19日、東京・蔵前国技館で行なわれたストロング小林とのNWF世界ヘビー級選手権試合だ。

国際プロレスのエースだったストロング小林の挑戦を、新日本プロレスのエースである猪木が受けて立ったこの夢の対決は、歴史に残る名勝負となり、最後は渾身のジャーマンスープレックスホールドで猪木が勝利。“猪木時代”の幕開けを告げることとなった。

この猪木vs小林戦を「単なる名勝負じゃない。昭和プロレスの大きな節目となる“事件”だった」と語るのは、当時の東京スポーツ記者で、東京12チャンネル『国際プロレスアワー』の解説者も務めた門馬忠雄(もんまただお)だ。

「この試合によって、全日本、新日本、国際という3団体のパワーバランスが大きく変わった。ここから国際は苦境に立たされ、新日本がトップに立つ流れが完全に決まった。日本プロレス以降の新しい時代は、ここから始まったんだよ」“昭和の巌流島決戦”とうたわれ、プロレス界の流れを変えるほどの影響を与えたこの大一番は、いかにして実現したのか。その歴史を紐解いてみよう。

新日本の思惑が潜んでいた小林からの挑戦状

まず、この一戦が実現に至るまでの当時のプロレス界の状況について、あらためて整理しておこう。

71年末、猪木は会社乗っ取りの汚名を着せられて日本プロレスを追放され、72年3月に新日本プロレスを設立する。しかし、当初はテレビのレギュラー放送がなかったため、その半年後に日本テレビの全面バックアップを受けて旗揚げしたジャイアント馬場の全日本プロレスや、TBSのレギュラー放送を持っていた国際プロレスの後塵を拝していた。

旗揚げから1年後の73年4月、新日本にもNETテレビのレギュラー放送が決まり、猪木とタイガー・ジェット・シンの抗争がヒット。ようやく軌道に乗り始めたが、団体としての力はまだまだ弱く、TBSで顔と名前を売ったストロング小林との一戦は、猪木と新日本をアピールするために、是が非でも実現させたい試合だった。

しかし当時は、大物日本人対決がタブー視されていた時代。54年12月22日に行なわれた力道山vs木村政彦が凄惨な試合となり、世間から非難が集中し一時的にプロレス人気が下降した一件があって以降、大物日本人対決は半ば封印されていた。

ましてや団体の枠を超えたトップ同士の対決となると前代未聞のこと。その実現するはずがない試合が実現したのは、国際プロレス内部での人間関係の軋轢がひとつの原因だった。

「小林の国際プロ離脱というのは、事実上、新日本による引き抜きだったんだけど、なんで小林がそれに応じたかといえば、グレート草津との確執が発端だよね。その隙間に新日本がうまくつけ込んだんだよ」

グレート草津は元ラグビー代表で、68年にTBSで国際の放送がスタートした際、若きエース候補として売り出されたレスラー。しかし、定期放送初回の大事なメインイベントで、“鉄人”ルー・テーズのバックドロップで失神。そのまま試合続行不可能になる失態を演じ、「エース失格」の烙印を押されてしまう。

その後、絶対的な日本人エース不在が続くなか、71年にようやく誕生した国際の新しいエース、それがストロング小林だった。しかし、このエース交代劇が、不和を生むこととなる。

「レスラー同士の確執の原因は、ほとんどがジェラシーによるもの。草津はエースの座を譲りたくなかったんだろうけど、社長の意向で小林に変わったことで、二人の関係に隙間風が吹くこととなった。しかも当時、国際のマッチメーカー・現場監督は草津だったから、小林はやりづらかったと思うよ。そうして小林は、草津のカード編成に不満を抱いていくようになったんだよ」

実際、国際離脱前の小林はエースでありながら、シリーズ中にメインイベントに出場した回数は、マッチメーカーである草津の半分ほど。明らかに冷遇されていたのだ。

小林と草津の確執は、ほどなくして他団体にも知られることとなり、新日本と全日本が水面下で小林の争奪戦を展開。結局、“過激な仕掛け人”こと、新日本の新間寿が小林の自宅に日参(にっさん)し、口説き落とすことに成功した。

そして小林は74年2月13日に単独で会見を開き、国際を離脱してフリーとなることを宣言。同時に猪木と馬場へ、内容証明付き郵便で挑戦状を送り付け、猪木はすぐさま挑戦を受諾。一方、馬場はこれを黙殺した。

しかし、この猪木と馬場の二人に挑戦状を送るという行動自体、新日本が小林にやらせたものだということが定説になっている。新日本は、猪木vs小林を実現させるだけでなく、「猪木は堂々と挑戦を受けたが、馬場は小林の挑戦から逃げた」という負のイメージも同時に植え付けようとしたのだ。猪木にとっては、小林戦もまた馬場を上回るための手段だったのである。

「だから猪木vs小林に対して、いちばん忸怩(じくじ)たる思いを抱いていたのは、馬場だと思うよ。馬場はしっかりとした手順、段取りを踏まないと嫌がる人間。一方的に挑戦をぶち上げる猪木のやり方をいつも苦々しく思っていた。でも、それをわかっていてやる確信犯が猪木なんだよな」