プロレス界の完全無欠のエース・ジャンボ鶴田に迫る、締めくくりとして著者である小佐野景浩氏が、自身のキャリアを交えつつ、公私にわたり見届けてきた“永遠の最強王者・ジャンボ鶴田”を振り返る。

ファンを魅了した鶴田の爽やかで明るいファイトスタイル

今でも“日本人レスラー最強説”が根強いジャンボ鶴田。2000年の急逝から、没後20年となる5月13日に『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』を上梓した。本書は瞬く間に重版出来となり、良い供養になったという思いもある。

『永遠の最強王者 ジャンボ鶴田』(小社刊)

その一方で、「強い」「無尽蔵のスタミナ」「天才」という鶴田を称賛する言葉には、実は私自身も飽き飽きしていた。いったい、鶴田の何が凄かったのか? その強さの源はどこにあったのか? そして「最強」と言われても「最高」と言われないのはなぜなのか? そうした難問を解き明かすことが、この本のテーマであった。

私は、プロレス専門誌『月刊ゴング』が週刊化された1984年5月から90年7月までの6年2か月間、全日本プロレス担当記者を務めた。

ジャンボ鶴田が日本人初のAWA世界ヘビー級王者に君臨し、ジャイアント馬場に代わって全日本のエースの道を歩き始めた時から、長州力らジャパン・プロレスとの日本人抗争、天龍源一郎との鶴龍対決を経て、三沢光晴ら超世代軍の壁になった時代である。

幼少の頃からプロレスファンだった私は、もちろん鶴田が73年10月に鮮烈な日本デビューを果たした時からテレビで観ていた。怖くて強い、という従来のプロレスラーのイメージとは違い、鶴田は爽やかで明るく、当時の日本の子どもが憧れていたアメリカの自由な空気感をまとっていた。

▲鶴田の華やかなイメージは従来のプロレス観を覆した

デビュー早々に4種類のスープレックスを華麗に操り、196㎝の長身を生かしたダイナミックなドロップキックは驚きだった。アントニオ猪木が好きだった私でも「若くてカッコいいな!」と理屈抜きに鶴田ファンになった。

父親の故郷が同じ山梨県〔父は南都留郡、鶴田は国中の東山梨郡牧丘町=現在の山梨市と地域は離れているが……〕ということも、鶴田に親近感を抱いた大きなポイントだ。