打高の時代に三冠王の価値を見出した松中信彦

平成唯一の三冠王といえば松中信彦だ。

▲2006WBC決勝での松中信彦 写真:AP/アフロ

2004年の成績は、打率.358、44本塁打、120打点と圧巻の数字を残した。さらに、スラッガーの証でもある長打率に関しては、キャリア最高の.715を記録しており、2000年代中盤において間違いなく最高の打者だったと言っていいだろう。

しかし、この年に開催されたアテネ五輪には選出されなかった。理由は、各球団2名ずつ選出されるというシステムがあり、当時のホークスからは城島健司と和田毅が選ばれた。

ただ、そのアテネ五輪が松中に追い風となり、打点は2位に12打点差をつけてタイトルを獲得。本塁打に関しては、五輪に出場しなかったフェルナンド・セギノールとシーズン終盤まで争い、同率でタイトルを獲得した。

首位打者は、前年に首位打者を獲得していた小笠原道大との争いに。この年の小笠原はアテネ五輪に選出されたため、本塁打と打点は例年よりも少ない状況だった。その小笠原をシーズン終盤に突き放して、見事に三冠王を達成したのである。

松中の場合は五輪の影響もあり、他の選手との成績に差をつけられたことが大きかった(アテネ五輪期間中もプロ野球の公式戦は通常通り行われた)。さらに、2003年から2005年は間違いなく全盛期だったため、ちょうどその期間と五輪が重なったのも大きい。

また、2004年は21世紀において、プロ野球自体が投低打高の様相がもっとも顕著に出たシーズンだったのではないだろうか。

パリーグの平均打率は.278を記録しており、本塁打は15本、打点は62、OPS.791だった。TOP3の選手を見ても、打率は3位の城島が3割3分を越え、本塁打は40本台が2選手、打点は3選手が100打点だった。飛ぶボールの時代だったため、“ホンモノレベル”の投手だけが防御率2点台を達成していた。

松中の特徴としては、やはり内角の打ち方である。本来であればファールゾーンに切れていくはずの打球が、切れずにスタンドインする確率が高かった。また、当時はテラスがなかった福岡ドームで、松坂大輔からバットを折りながらのホームランや同じく松坂から1試合3本塁打を放つなど、印象的なホームランが多い。パワーはもちろんのこと、技術の面でも超一流の域に達していた。

〇【43】平成球史に残る対決 怪物vs三冠王の行方

その松中は、2006年開幕前に開催されたWBCで日本代表の4番として出場し、優勝に貢献した。

 ▲2004年の打撃タイトル争い