2022年、アントニオ猪木が設立した新日本プロレスと、ジャイアント馬場が設立した全日本プロレスが50周年を迎えた。今も多くのファンの心を熱くする70~80年代の“昭和のプロレス”とは、すなわち猪木・新日本と馬場・全日本の存亡をかけた闘い絵巻だった。プロレスライター・堀江ガンツが1987年の“リアルファイト”を再検証する!

さまざまな事件が起こった昭和の新日本プロレスにおいて、最も大混乱に陥った大会といえば、87年12月27日に両国国技館で行なわれた『イヤー・エンド・イン国技館』だろう。

あのビートたけしが『たけしプロレス軍団(TPG)』を率いてリングに登場するという話題性がありながら、度重なる強引な対戦カード変更などにより観客が激怒。最終的には暴動騒ぎが起きるという最悪の結末を迎えてしまった大会だ。「12・27の両国は大変だったぞ。あれ以降、殿(ビートたけし)の前でプロレスの『プ』の字も言えなくなったからね」

あの日、たけし軍団の一員として現場にいた、浅草キッドの玉袋筋太郎はのちにこのように語っている。

「当時、俺はたけし軍団に入ってまだ1〜2年で、軍団の兄さんたちのボーヤ(付き人)だったんだけど。もともと猪木信者でもあるし、もちろんたけし信者でもある。だから二重の者として、TPGの企画が動き出した時は、『すげえことが起こるぞ!』って期待感があったんだけど、悪い意味で、とんでもねえことが起こっちゃったんだよな(苦笑)」

“たけしのプロレス参戦”にテレビ、ラジオ、スポーツ紙が連動

もともとTPGは「たけしがスカウトしたレスラーを猪木に挑戦させる」という『ビートたけしのオールナイトニッポン』内で生まれたものだったが、“たけしのプロレス参戦”という、本来ありえない企画が動き出した背景には、テレビ局が深く関係していた。

「殿がやってた『ビートたけしのスポーツ大将』って番組が、新日本と同じテレビ朝日系でさ。両番組が連動するかたちで、『スポーツ大将』の中にプロレス部を作ろうってところから、たしか始まったんだよ」

この年、新日本のテレビ放送は視聴率テコ入れのために、試合だけを中継するスタイルから、山田邦子をMCに迎えバラエティ色を強めた構成にリニューアル。制作もテレ朝のスポーツ班からバラエティ班に変更されため、同じ制作班の『スポーツ大将』とのコラボが実現することとなったのだ。

「それである人の仲介で、猪木と殿がホテルで会談を持つわけだよ。そこに連れていかれたのが、なぜか『ビートたけしのオールナイトニッポン』のハガキ職人だったベン村(むら)さ来(き)だったんだけどな(笑)。殿が『今度、猪木と会うからよ。お前、プロレス好きなんだから来い!』って言ってさ。『たけしの刺客として出すマスクマンのアイデアを考えろ』ってことだったんだけど。その時、出したアイデアが『包茎仮面カワカムリン』。採用されるわけねえよ(笑)」

こうして秘密裏に行なわれた猪木-たけしの頂上会談を経て、TPGは本格的に動き出す。

「ただ、そこから殿は、放送作家もやってたダンカンさんに『やっとけよ』って言って、直接触らなくなったんだよ。それでプロレス好きの俺たち浅草キッドがダンカンさんに呼ばれて、毎週居酒屋に東スポ芸能部記者と4人で集まって会議をやって。酒を飲みながら『こんなことをやるか』みたいに話してた企画が、翌日、東スポの独占記事になってるというね(笑)」

TPGは「プロレスの新団体」としてスタートしたので、具体的にまず着手したのは新人レスラーの獲得と育成だった。

「TPGの新人入団テストは、ニッポン放送でやったんだよ。その時、合格したのが、今の邪道、外道とスペル・デルフィン。彼らをコーチしていたのが、元国際プロレスのアポロ菅原さんで。『風雲!たけし城』に出演していた上田馬之助さん、ストロング金剛さんも教えていたはずだよ。だからTPGはニッポン放送が発端で、東スポが紙面で盛り上げて、選手はTBSの『たけし城』の現場で育てていた。それを最終的にはテレ朝の『ワールドプロレスリング』に出そうっていうんだから、今考えるとすごいよ。テレビ、ラジオ、スポーツ新聞と、系列も違うところを股に掛けてできたのが殿だったよね」

新人選手は募集したものの、まさか半分素人みたいな若者を猪木と闘わせるわけにはいかない。結局、TPGの参謀だったマサ斎藤が、アメリカからスカウトしてきた選手を、“たけしの刺客”として登場させることとなった。それがビッグバン・ベイダーだ。

プロレスファンが部外者を拒絶 ビートたけしに1万人の罵声

「いよいよ12・27国技館を迎えるわけだけどよ、当日、殿は体調があまり良くなくて「行きたくねえ」って言ってたんだよ。もしかしたら嫌な予感がしてたのかもしれない。1万人のプロレスファンが待っているところに、ヒールとして乗り込むわけだからね。だから殿に何かあっちゃいけねえってことで、軍団は全員集められたし、さらに私設SPを8人くらい雇ったからね。厳重警備の中、殿はギリギリに会場入りして、自分の出番だけ済ませてすぐ帰るために、コートを着たままリングに上がったんだよ」

当時、たけし人気は絶大であり、関係者は歓迎ムードを予想していた。ところが実際は一部で「たけし」コールが起こったものの、1万人の大観衆がたけしや軍団に本気の罵声を浴びせた。今でこそ、プロレスが芸人と絡むことは珍しくなくなったが、当時のプロレスファンは、“部外者”参入を拒絶したのだ。

その拒絶反応は、ガダルカナル・タカとダンカンがマイクで、猪木にベイダーとの一騎打ちを要求するとさらに増幅した。

本来、この日のメインは猪木vs長州力で、ベイダーはマサと組んで、藤波辰巳&木村健悟と対戦する予定だった。しかし、猪木が「よーし、受けてやるか! (お客さん)どうですかー!」と対戦を受諾してしまい、メインは猪木vsベイダーに変更。長州はベイダーの代わりにマサと組んで、藤波&木村と闘うこととなってしまった。

この観客を無視した展開に怒ったファンは、長州&マサvs藤波&木村が始まると、一斉に「(試合を)やめろ」コールの大合唱。リング上には物が投げ入れられた。あまりの観客の怒りに猪木は急遽、長州、ベイダーと2連戦を行なうが、2試合とも凡戦に終わってしまう。すると、猪木vs長州の熱い闘いを期待していたのに、ドタバタの茶番劇を見せられた観客の怒りがついに大爆発。メイン終了後も観客は帰らず、罵声、怒号が飛び交い、暴動が起き、2階席の一部は観客によって破壊される最悪の事態となってしまったのだ。

「結局、暴動が起こるまえに殿や軍団の兄さんは帰ってたんだけど、あんなことが起こったもんだから、それ以降、殿の前でプロレスの『プ』の字も言えなくなったわけだよ。今でこそ笑って話せるけどな。でも、最初のホテルでの会談の時、殿は猪木さんからプロレスのなんたるかを教わったって言ってたよ。だから、これがハマッてたらすごいものになってたかもしれない。10年、20年早かったんだよな。まあ、TPGは『黒歴史』みたいな感じになってるけど、ベイダーを発掘して、今、新日を仕切ってる邪道、外道をプロレス入りさせたんだから、やった意味はあったと思うよ」

※本記事は、堀江ガンツ​:著『闘魂と王道 -昭和プロレスの16年戦争-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。