2022年、アントニオ猪木が設立した新日本プロレスと、ジャイアント馬場が設立した全日本プロレスが50周年を迎えた。今も多くのファンの心を熱くする70~80年代の“昭和のプロレス”とは、すなわち猪木・新日本と馬場・全日本の存亡をかけた闘い絵巻だった。プロレスライター・堀江ガンツが1986年の“リアルファイト”を再検証する!

1985年12月6日、新日本プロレス両国国技館大会のリング上に、スーツ姿の男たちが現れた。

前田日明、藤原喜明、木戸修、高田延彦、山崎一夫のUWF五人衆。いずれも元・新日本プロレスのレスラーであり、84年に新団体UWFに身を投じ、格闘技色の強いシビアなプロレスを追求したが、団体がわずか1年半で経営難に陥り活動休止したため、新たな戦場を求め古巣・新日本にUターンしてきたのだ。

UWFを代表し、26歳の若きエース前田は「1年半、UWFでやってきたことがなんであったか。それを確かめるためにやってきました」と、静かに力強くマイクアピールを行なった。プロレス界でよく見られる、突如乱入して口汚く罵っての宣戦布告ではなく、正装での挨拶は“出戻り”の屈辱を胸にしまい、精一杯の意地を張った姿のように思われた。

元『週刊プロレス』編集長のターザン山本は、この時の前田らの姿をこう語る。

「彼らは理想を求めて新日本を飛び出しながら、わずか1年半で挫折して、食うために猪木に再び拾ってもらった、惨めな立場なわけですよ。かたちとしては、新日本の軍門に下ることになったわけだけれども、あのスーツ姿での挨拶は『決して魂だけは売らない』という決意の現れだったんです」

その言葉どおり、86年1月から本格参戦したUWF勢は、新日本に迎合することなく、本格的なキックと関節技を武器にいっさいの妥協なく攻め込み、自分たちのスタイルを貫いていく。特にUWFのエース前田日明は、絶対的な存在であったアントニオ猪木を公然と批判。42歳になった猪木を、リング上の闘いとリング外の発言の両方で追い詰めようとした。

これに対し、新日本のレスラーたちは「出戻りがでかい顔をするな」と応戦。そのお互いに譲らない、理想も思想もスタイルも異なる新日本とUWFのぶつかり合いは、“イデオロギー闘争”と呼ばれ、新日本プロレスの歴史上、最も危険な空気が漂う抗争となった。

この新日本とUWFの抗争、私情がらみの近親憎悪のようなものになった背景には、UWFという団体の特殊な成り立ちにあった。

馬場に提携を断られ古巣・新日本への出戻りを決意

そもそもUWFとは、猪木の“落とし子”のような団体であった。

83年8月、猪木の個人的な事業であるアントンハイセルに絡む不透明な金の流れが問題となり、新日本内部で“クーデター未遂事件”が勃発。猪木は新日本の代表取締役を解任され、腹心であった新間寿営業本部長も謹慎処分から退社へと追い込まれる。その時、新間が、新日本での立場が危うくなった猪木の“受け皿”として設立に動いた団体がUWFだった。

当初の計画では、新間が数人の先発部隊となるレスラーを率いて新日本から独立。フジテレビと放映契約を結び、そこに猪木らが合流するというものだった。その尖兵隊のエースに選ばれたのが当時25歳の前田日明だった。前田は、猪木の「俺もあとから行くから、先に行っておけ」の言葉を信じ、新日本を退団してUWFに移籍する。しかし、いざUWFの旗揚げシリーズが始まると、猪木はテレビ朝日の引き留めにより新日本に残留してしまう。この猪木の翻意により、フジテレビの放送は白紙に戻り、船出したばかりのUWFはいきなり座礁してしまったのだ。

新間はここでUWF継続を諦め、選手らを再び新日本に戻すべく水面下で動くが、前田はこれを拒否。フロント社員たちと運命を供にし、猪木への怒りを胸にUWFを続ける決断をした。

そこにゴタゴタ続きの新日本に見切りをつけた藤原喜明、高田延彦、木戸修、さらに元タイガーマスクの佐山サトルも合流。彼らはいずれも、新日本道場内で特に「強さ」を求めて腕を磨いていた精鋭であり、新日本との差別化を図るため、キックや関節技を前面に押し出した、格闘技色の強いシビアなプロレスを展開。これがコアなファンの支持を得て、熱狂的なUWF信者を生んでいった。

しかし地上波テレビのレギュラー放送を持たないUWFはすぐに資金難に陥り、わずか1年半で興行機能を失ってしまう。UWF勢は全日本への参戦を模索するが、当時の全日本はジャパンプロレス と提携中で日本人選手が飽和状態。

そのため前田が馬場と会談を持った際、「君と高田くんの二人ならいいよ」と、団体としての提携を断られてしまう。こうして前田らは生きるための苦渋の選択として、古巣・新日本への出戻りを決意したのだ。