2022年、アントニオ猪木が設立した新日本プロレスと、ジャイアント馬場が設立した全日本プロレスが50周年を迎えた。今も多くのファンの心を熱くする70~80年代の“昭和のプロレス”とは、すなわち猪木・新日本と馬場・全日本の存亡をかけた闘い絵巻だった。プロレスライター・堀江ガンツが1983年の“リアルファイト”を再検証する!

80年代前半のプロレスブーム絶頂期。新日本プロレスでは、アントニオ猪木とラッシャー木村率いる、はぐれ国際軍団、タイガーマスクと小林邦昭、そして「名勝負数え唄」と呼ばれた藤波辰巳と長州力の3大抗争を軸に凄まじい人気を博していた。

一方、ライバルの全日本プロレスは、人気と話題の両面で新日本の後塵(こうじん)を拝していたが、そこに突如として救世主が現れる。それが“東洋の神秘”ザ・グレート・カブキだ。

カブキは、この2年前からアメリカで大ブレイク。その活躍ぶりは日本のプロレス誌でも伝えられ、“まだ見ぬ強豪”として期待が膨らむなか、83年2月11日、アメリカから“逆輸入”というかたちで全日本に初登場を果たした。

黒装束に鎖帷子(くさりかたびら)をあしらった頭巾を被って入場し、リングに上がるとヌンチャクのデモンストレーションを披露。そして頭巾を取ると、長い髪の毛のあいだから不気味な隈取(くまどり)を施した顔がのぞき、その髪をかきあげると天井に向けて緑の“毒霧”を吹き上げた。

この見たこともないパフォーマンスに、館内は大きなどよめきに包まれる。そして試合では、アッパーカットやトラースキック(逆蹴り)など、当時流行のカンフー映画を思わせる打撃で、対戦相手のジム・デュランを翻弄し続け、最後はセカンドロープからの正拳突きで勝利した。

この一試合でカブキの人気は爆発。特に小学生を中心とした少年ファンのあいだでは、新日本のタイガーマスクにも負けない人気を獲得し、カブキブームが巻き起こったのだ。

このカブキ人気の大きな要因は、毒霧、ペイント、歌舞伎をモチーフにした純和風のキャラクターなどが、すべてそれまでのプロレス界にはないオリジナルだったことが挙げられる。

この“東洋の神秘”というキャラクターは、いかにして生まれたのか。カブキ本人が語ってくれた。

カブキ誕生秘話と考え抜かれた毒霧

プロレスファンならご存知のとおり、カブキの“前身”は全日本の中堅レスラーだった高千穂明久だ。高千穂は「このまま全日本で埋もれて終わりたくない」という思いから、馬場に直訴して78年2月からアメリカへの長期遠征に旅立つ。

そして、全米各地を転戦したのち、80年末に“鉄の爪”フリッツ・フォン・エリックが仕切るテキサス州のダラス地区に参戦。ここで“東洋の神秘”に変身することとなるのだ。

「ダラスに入り、何か新しい自分のキャラクターが欲しいと思っていたとき、マネージャーのゲーリー・ハートが『お前、こういう格好できるか?』って、歌舞伎の写真が載った雑誌を持ってきたんだよ。ちょうど似たような和服の衣装を持っていたから、『できなくはないよ』って答えたら、『マスク被ってやってくれ』って言われた。

ゲーリーは、歌舞伎の隈取をマスクだと勘違いしていたんだ。だから『バカ野郎、この白い顔は役者さんが化粧をしているんだ』って説明したら、『じゃあ、ペイントしてやってくれ』って言われてね。そうして生まれたのが、ザ・グレート・カブキというキャラクターだったんだよ」

当時、マスクマンはいても、顔にペイントを施したレスラーはほとんどいなかった。ましてや、歌舞伎や忍者をモチーフにした和装で、それをやるのはカブキ一人。それだけで個性は際立ったが、カブキはさらなるインパクトを求めた。

「アメリカでは、当時からハロウィンが浸透していたから、顔にペイントするだけじゃ『ハロウィンみたいなもんか』と思われて、インパクトが少ないと思ったんだよ。それで、何かほかにできることはないかと考えていたとき、たまたまシャワー浴びていたら、口にお湯が入って天井に向けてフーッと吹き出したの。そしたら、ライトに照らされて、そこに虹がスーッと現われたんだよ。そのとき、『これだ!』と思ったね」

口から霧を吹くことを思いついたカブキは、さまざまな色の液体を調合しはじめる。

「最初は黒や白の液体を吹いてみたけど、ただの水滴にしか見えなくてね。それでカラフルな色を試すと、赤と緑がいちばんライトに映えることがわかり、二色の毒霧が完成したんだ」

次の問題は、“毒霧の素(もと)”をどうやって口に含むかだった。

「これも試行錯誤の末、ゴム風船の中に入れて潰して口に含んでおき、吹きたいときにゴムを噛み切って液体を口から吹くことを思いついたんだ」

こうしてついに“毒霧”というプロレス史に残る傑作ギミックが完成。ここからカブキ人気に火がついた。

「最初、子どものファンが飛びついたんだよ。俺の真似をして、ストロベリーやメロンのジュースを吹く遊びが流行したらしくてね。それを見た親たちが、テレビ局に『あんなのは出すな!』って抗議の電話を入れたらしいけど、反応があるってことで霧を吹き続けたら、どんどん人気が上がっていったんだ」

カブキの毒霧のすごいところは、試合前にまずデモンストレーションで緑の毒霧を吹いたあと、試合中「ここぞ」というときに、相手の顔面に今度は赤の毒霧を吹きかけていたことだ。どのようにして試合中に色を変えていたのか。当時、多くのファンが不思議がっていたが、今回その秘密を明かしてくれた。

「ゴム風船の中に入れた“毒霧の素”を、ひとつは口の中に入れて、もうひとつはタイツの中に隠しておく。それで試合開始から10分ほど経って相手を場外に落とすと、観客の目はそっちにいく。その隙にタイツを直すフリして“素”を取り出だし拳に握っておく。そして握ったままパンチを中心に攻めて、タイミングを見計らって、口を拭うふりをして素を口に含むんだ」

なんとカブキは手品師のごとく、観客の心理を操り視線をそらすことで、堂々とリング上で毒霧の素を口に入れていたのだ。

「これで準備万端だから、今度は相手に攻めさせる。で、相手がトップロープに上がって、ライトと相手と自分が一直線になったときが噴射の狙い目。そこで相手に向けて毒霧を吹きかけると、真っ赤な霧がきれいに映えて、観客が『おーっ!』って沸くんだよ」

毒霧というカブキ最大の見せ場であり、偉大なる発明は、そこまで考えられた“必殺技”だったのである。

そして、観客を手のひらに乗せて操れる、レスラーとして一流のサイコロジーを持っていたからこそ、カブキは色物で終わらず全米のトップヒールとなりえたのだ。