2022年、アントニオ猪木が設立した新日本プロレスと、ジャイアント馬場が設立した全日本プロレスが50周年を迎えた。今も多くのファンの心を熱くする70~80年代の“昭和のプロレス”とは、すなわち猪木・新日本と馬場・全日本の存亡をかけた闘い絵巻だった。プロレスライター・堀江ガンツが1982年の“リアルファイト”を再検証する!

日本にプロレスが持ち込まれて以来、これまで何度か大きなブームが起こってきたが、テレビ黎明期の力道山時代を除けば、80年代初頭に起こったプロレスブームこそが最大のものだろう。

特に新日本は、全国で年間250近く組まれた興行が、ほとんど超満員の大入り続き。テレビの視聴率は、裏番組に『太陽にほえろ!』『3年B組金八先生』といった強力な番組があったにもかかわらず、平均で25%以上を獲得。“過激なアナウンサー”古舘伊知郎の名調子に乗って、まさに社会現象を起こしていた。

その空前のプロレスブームの原動力になったのが、タイガーマスクの出現であることは言うまでもないだろう。アニメの世界から実際のリングに飛び出したタイガーマスクは、カンフー映画を思わせるキレのある蹴り技と、リングを所狭しと動き回り、華麗な飛び技を繰り出す斬新な戦いぶりで人気爆発。子どもを中心に、これまでプロレスに興味を持っていなかった層までも虜(とりこ)にさせた。

「タイガーマスクの人気は本当に凄まじかったね。これまでのプロレス会場とは、客入りから熱気、雰囲気まですべてを変えてしまったよ」

そう語るのは、“虎ハンター”と呼ばれ、全盛期のタイガーマスクと熾烈なライバル抗争を繰り広げた小林邦昭だ。

小林は昭和57年10月、人気絶頂だったタイガーマスクに突如、牙を剥き、虎のマスクを引き裂いて素顔を晒そうとするなど、タイガーの敵役として、最も印象を残したレスラーの一人。

当時はタイガーマスクファンの憎悪を一身に浴びていたが、その素顔は、タイガーが覆面レスラーに変身するまえ、素顔の佐山サトルとして戦っていた若手時代に、最も仲の良かった兄弟子でもあった。そんなタイガーマスクを誰よりもよく知る小林に、まずはそのルーツである佐山サトル時代から語ってもらった。

佐山の動きは若手時代から“タイガーマスク”だった

「佐山が新日本プロレスに入門してきたのは、たしか昭和50年だったと思うけど、当時彼はまだ17歳。身長が低くて童顔だから、子どもみたいだったよね。あの頃の新日本は、まだ選手の数も少なかったから入門が許されたんだろうけど、身長170センチそこそこだったから、普通だったらプロレスラーにはなれない体だった。

ただ、運動神経はズバ抜けてましたよ。ある日、夕方に『ちょっと走りに行ってきます』って言ったきり、1時間半くらい帰ってこなかったんで、どこまで行ったのかと思って聞いてみたら、『渋谷のロータリーまで走って、折り返してきました』って言うんだよ。(世田谷区野毛(のげ)の)道場から渋谷まで走ったら、往復で20キロ。それを体重背負ったレスラーが軽く走るんだからね。

ほかにも、縄跳びやれば2時間ノンストップだし、タイガーマスクのあの動きは、そういった基礎運動能力からきてるんだと思うよ」

当時の新日本プロレス道場は、練習の厳しさでは特に定評があり、耐えきれなくなった練習生が次々と夜逃げしていくことで有名だった。そんな道場での地獄の練習のあと、佐山はさらに出稽古も行なっていたのだという。

「佐山は道場での合同練習が終わったあと、みんなに内緒でキックボクシングの目白ジムに通ってたんですよ。当時の目白ジムと言えば、“鬼の黒崎”と呼ばれた黒崎健時さんの指導で、格闘技の世界でもその厳しさは日本一って言われてたところでしょ? そこへ新日本の練習が終わったあとに行って、藤原敏男、島光雄といった一流キックボクサーと一緒に練習してたんだから、考えられない練習量だったと思うよ。佐山はそれだけ強くなりたいという思いが、人一倍強かったんだと思うね」

もちろん練習だけでなく、プロレスの試合でも佐山サトルはモノが違ったという。

「若手の頃は、メインイベンターが使うような派手な大技は使っちゃいけない、という暗黙のルールがあるんだけど。そういった制約されたなかでも、佐山は必ずお客さんを沸かせていた。誰もが使う基本的な技でも、佐山が使うとスピードとキレが全然違うので、派手な技に見えてしまうんだよね。だから、佐山は若手の頃から“タイガーマスク”だったんですよ。大技を使わないだけで、動きは段違いだったから」

こうして、小兵にもかかわらず、デビュー後すぐに頭角を現わした佐山は、78年にキャリア2年で早くもスターへの片道切符とも言うべき海外遠征に出発。ルチャ・リブレの本場メキシコに渡ると、サトル・サヤマのリングネームで、現地のメジャータイトルであるNWA世界ミドル級王座を獲得するなど大活躍。さらに80年にはイギリスに渡り、“ブルース・リーの従弟”という触れ込みでサミー・リーを名乗り、英国マットに参戦すると、現地で大ブームを起こしたのだ。

このサミー・リー人気は、のちに佐山自身も「“タイガーマスク”は日本に突然現われたんじゃなくて、イギリスでもう出来上がってたんですよ。サミー・リーの人気は、日本でのタイガーマスク人気以上でしたから」と語るほどだった。

そんなイギリスで大ブレイクしていた佐山のもとに、81年春、新日本プロレスから帰国命令がくだる。イギリスでのスケジュールを理由に、佐山は一度はこれを断るが、「一試合だけでいい」と説得され帰国。ひさびさに日本に戻ってきた佐山に用意されていたのが、虎のマスクだった。

この時期、テレビ朝日系でアニメ『タイガーマスク二世』の放送が開始されており、これに合わせて、同じテレ朝系で放送されていた新日本プロレスのリングでもタイガーマスクを登場させるという、今で言う“メディアミックス”の企画として、佐山に白羽の矢が立てられたのだ。

しかし、急ごしらえで作ったマスクやコスチュームは粗悪なものであり、また当時シビアな格闘プロレスを標榜していた新日本プロレスのリングで、漫画のキャラクターとして登場させられることに、本格指向の佐山は激しく落胆したという。

そして81年4月23日、蔵前国技館。佐山は「一試合だけ」と自分を納得させ、嫌々ながらタイガーマスクとして、ダイナマイト・キッドと対戦。

出来の悪いマスクを被った漫画のキャラクターレスラーの登場に、最初は客席から失笑も起きていたが、いざゴングが鳴り試合が始まると、その空気は一変。タイガーの一挙手一投足に歓声が上がるようになり、最後に“プロレス技の芸術品”とも言われるジャーマンスープレックスでキッドを破ると、場内は大歓声に包まれた。

テレビのゴールデンタイムでも放送された、このインパクトは絶大であり、タイガーマスクはこうして一夜にしてスーパースターとなり、一試合のはずがずっとレギュラーで日本に定着することになったのだ。