安倍元総理大臣が銃撃によって死亡してから半年が経過します。半年が経ってもなお事件に関しては様々な憶測が飛び交い、中には根拠のない出まかせや理性を失った人々の喚き声としか呼べないようなものまで散見されるカオス状態。

そんな人々に騙されずしっかりと悪を見極める素質を身につけることが、波乱の時代を生き抜く我々には必要なのだ、と、作家の適菜収氏は語ります。

あぶり出されてきた「いかがわしい人たち」に騙されず生きていく術とは一体何でしょう。

※本記事は、適菜収:著『日本を腐らせたいかがわしい人々』(ワニブックスPLUS新書:刊)より一部抜粋編集したものです。

同じ“壺”のムジナ

残念ながら、与えられた情報を詳しく調べもせずに飛びついてしまう人々はいる。歴史や伝統の価値に興味もなく、国家や社会がどうなろうと知ったことではないという人々もいる。特定の勢力がつくりあげたチープな物語を信じ込み、生温かい世界に閉じこもる人もいる。そして、こうした人々をカモにして、権力に接近する人々もいる。

スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセットは『大衆の反逆』(神吉敬三訳/ちくま学芸文庫)で「大衆」を次のように定義している。

《大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである》

《人間を最も根本的に分類すれば、次の二つのタイプに分けることができる。第一は、自分に多くを求め、進んで困難と義務を負わんとする人々であり、第二は、自らに対してなんらの特別な要求を持たない人々、生きるということが自分の既存の姿の瞬間的連続以外のなにものでもなく、したがって自己完成への努力をしない人々、つまり風のまにまに漂う浮標のような人々である》

《したがって、社会を大衆と優れた少数者に分けるのは、社会階級による分類ではなく、人間の種類による分類なのであり、上層階級と下層階級という階級的序列とは一致しえないのである》

《かくして、その本質そのものから特殊な能力が要求され、それが前提となっているはずの知的分野においてさえ、資格のない、資格の与えようのない、また本人の資質からいって当然無資格なえせ知識人がしだいに優勢になりつつあるのである》

端的に言えば、隣の人と自分の価値観が似ていることに安心感を覚える類の人である。

確固とした自分の考えがなく、世間体ばかりを気にしている。

政治家はこういう人たちをプロパガンダのターゲットにする。

▲確固たる自分の考えを持たない人がプロパガンダのターゲットになる 出典:サイクロン / PIXTA

一連の統一教会の病理も同じである。

政治家は票を集めることができるなら、なりふり構わずなんでも利用する。そこにはモラルも責任感もない。

この腐った政治に迎合し、これまで安倍晋三礼賛記事を社会に垂れ流してきた自称保守系メディアは、反省するどころか、安倍とカルトのつながりを「政治と宗教」や「信教の自由」の問題にすり替えたり、「安倍さんは統一教会の天敵だった」と妄想を膨らませたり、統一教会の問題を矮小化することで、この危機を乗り越えようとしている。

反日カルトが国家の中枢に食い込んでいたのに、現実を直視できない人々は、自我を保つために、いかがわしいメディアに寄生するいかがわしい「評論家」が流すいかがわしい情報に飛びついてしまう。

都合のいい情報だけをピッキングし、メディアが垂れ流す思考のテンプレートに乗り、同じ類のデマをツイートで垂れ流す。

カルト信者の洗脳を解くのは難しい。ネトウヨや安倍信者の洗脳を解くのも容易ではない。

批判されれば意固地になり、認識を更新することができないという点では、統一教会の信者も安倍信者も同じ壺のムジナなのである。