先日18日、最終回を迎えたNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』。北条義時の壮絶な死が描かれたラストシーンは、SNSを中心に大きな反響を呼びました。29日には総集編の放送もあり『鎌倉殿の13人』フィーバーは、まだしばらく冷めそうにありません。

義時亡きあと、天皇の勢力を一掃した鎌倉幕府の支配は全国に及びます。天皇を監視する「六波羅探題」もこの時期に設置され、幕府の支配体制は盤石なものになりました。

今回は『鎌倉殿の13人』の時代設定であった13世紀の世界情勢を見ていきましょう。日本も大変な時代でしたが、世界でも重要な出来事が起き、その余波は13世紀後半の日本にも及ぶことになるのです。

モンゴル帝国が世界を席巻していた

『鎌倉殿の13人』の最終回で描かれた「承久の乱」は、1221年の出来事になります。その頃の世界では、モンゴル帝国が勢力を急拡大していました。

「モンゴル人」と聞くと、相撲が強い印象ですが、モンゴル人は馬に乗る技術が長けている民族になります。馬に乗って攻撃を仕掛ける騎馬戦術を用いて、圧倒的なスピードを駆使し、次々と戦争に勝利していきました。

モンゴル帝国は破竹の勢いで快進撃を続けます。西はヨーロッパのポーランド、東は朝鮮(高麗)まで勢力を拡大し、ユーラシア大陸の大半を支配するまでになりました。

▲1294年頃の元の版図 出典:Ian Kiu / Wikimedia Commons

1271年には南宋を滅ぼし、中国を統一。「元朝」を建国します。初代皇帝はフビライになり、この人物が日本への攻撃を指示するのです。それが1274年と1281年に実行された「元寇」になります。

日本に攻めてきたフビライ軍ですが、軍事的な編成を見ると、フビライは本気で日本を侵略する意図がないことがわかります。日本に来た兵士の大半は、モンゴル人ではなかったからです。

モンゴル帝国が南宋を滅ぼした際、モンゴル軍に敵わないと判断した南宋の軍人たちは、ほぼ無抵抗のまま降伏したのです。当時の朝鮮(高麗)も同じような形で、モンゴル軍の支配下に入りました。

フビライの手元には、多くの軍人が余ることになります。しかし、フビライの近くに軍人たちを置いておけば、クーデターなどの可能性があり、いつ裏切られるかわかりません。そこで彼は、南宋・高麗の軍人たちに仕事を作りました。それが元寇なのです。

こうした背景から、元寇に参加した兵士の大半はモンゴル人ではなく、南宋と高麗の軍人になります。日本に遠征するための船は、高麗で急ピッチで作った粗悪品だったため、日本の荒れた海によってすぐに沈みました。

フビライの立場から考えると、元寇の目的は戦争で余った軍人の処理を進めることであり、元寇の勝敗はどちらでもよかったことになります。

また、広大な領土を支配するモンゴル帝国では、あらゆる場所で同時多発的にトラブルが発生します。日本だけに大きなエネルギーを割くことができない事情も重なりました。

元寇によってダメージを受けた鎌倉幕府の末路

フビライにとっては本気ではなくても、侵略を受けた日本からすれば大問題です。いくら南宋と高麗の寄せ集め集団といっても、何十万人で構成された大軍団になります。

鎌倉幕府は持てる力を結集して必死で戦いました。受けて立ったのは、まだ20歳にもならなかった8代執権・北条時宗でした。

▲伝北条時宗像 出典:Wikimedia Commons

当時の日本国内は大きな戦もなく、武士たちは幕府から褒美をもらえなかったため、持ち前の資産は先細る一方です。そのため武士たちは、高いモチベーションでフビライ軍に対峙しました。

大きな手柄をあげるため、日本の武士たちは1対1の個人戦を好みます。陣地をきちんと整えて集団戦を展開するフビライ軍は、単騎で敵陣に突っ込んでくる日本兵の異様な戦い方に困惑したと伝えられています。武士たちからすれば、単純に褒美が欲しかっただけなのですが……。

日本の武士たちが高いモチベーションで戦った結果、鎌倉幕府は見事勝利することになります。しかしこの元寇が、鎌倉幕府を崩壊させる1つの要因になるのです。

その理由は、必死で戦った武士たちに、幕府が褒美である土地を用意できなかったからです。元寇は侵略戦争になるため、勝利したとしても土地を得るわけではありません。いつまでたっても褒美をもらえない武士たちは不満を溜めることになります。

こうした武士たちの思いを結集し、反幕府運動を展開したのが足利尊氏になります。1333年、鎌倉幕府は崩壊。元寇からわずか50年後になります。

そして、室町幕府が成立することになるのです。

もし、さまざまな歴史的条件が揃い、フビライが日本侵略を真剣に考えたならば……。本来のモンゴル人兵士による編成で、得意の騎馬戦術を用いて戦ってきた場合、歩兵中心の日本軍は大敗した可能性があります。

本気の軍事編成をせずに、フビライが元寇に挑んだことは、日本にとって「幸運だった」と考えていいでしょう。