NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公である北条泰時。ドラマでは新垣結衣さんが演じる八重が、義時の初恋の人として登場し、第14回「都の義仲」で二人が結婚し、懐妊していることが描かれました。しかし、第21回「仏の眼差し」で彼女は帰らぬ人になってしまいます。

その後、頼朝の乳母である比企尼の孫として堀田真由さんが演じる比奈が登場し、第24回の「変わらぬ人」で、義時と一緒に暮らし始めます。鎌倉殿と御家人たちのあいだを取り持つ義時を支える二人の女性。ここではドラマとは少し違う歴史家目線で、義時が愛した女性について濱田浩一郎氏に聞いてみました。

北条泰時の母は「八重」なのか?

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の第15回「足固めの儀式」の回で、北条義時と妻・八重とのあいだに嫡男が生まれました。彼こそ、後の鎌倉幕府三代執権・北条泰時です。ドラマにおいては、北条泰時を俳優の坂口健太郎さんが演じることになりますが、ネット上では「俺たちの泰時・爆誕」などと歓迎されていました。が、泰時の母は本当に八重なのでしょうか?  

その謎に迫る前に、事実関係を整理しておきましょう。北条泰時が生まれたのは寿永二年(1183)と言われています。お父さんの義時が、ちょうど二十歳のときの子どもです(北条義時の生年が1163年)。泰時の幼名は金剛。 金剛というと、つい、金剛力士像を思い浮かべてしまいますが、金剛という言葉には「堅く何ものにも壊されない」とか「ものに迷わない」などの意味がありますので、強く逞しい人物に成長してほしいという義時の願いが込められていたと思われます。   

では、その泰時の母は誰なのか? 通説としては、阿波局という女性と言われています。阿波局は官女、つまり幕府に仕える女性だったとされます。  しかし、阿波局と聞いて私が思い浮かべるのは、泰時の母「阿波局」ではなく、北条義時の妹の「阿波局」です。ドラマ『鎌倉殿の13人』では、義時の妹・阿波局(役名は実衣)は、女優の宮澤エマさんが演じていますが。 つまり、これらのことを踏まえると、阿波局は二人いたということになります。

しかし、私の大学院時代の恩師の一人・上横手雅敬先生(京都大学名誉教授)は、著書『北条泰時』(吉川弘文館1958年)のなかで、泰時の母について次のように記されています。 

義時の妹の「阿波局と別に、泰時の母の阿波局がいたとは思えない。といって、義時が姉妹と結婚する筈もなかろう。阿波局が母のように泰時を養育した、というほどのことは考えられるが、結局は泰時の母が誰であったかは、知るよしもないのである」と。

つまり、阿波局は義時の妹以外に考えられない、よって泰時の母は阿波局ではない、それを突き詰めると、泰時の母が誰かは不明と言われるのです。 

もちろん、義時が妹の阿波局と結ばれたということはあり得ないですが、二人の阿波局がいなかったと決めつけてしまうのはどうでしょうか。  ちなみに、義時は建久3年(1192)9月に2度目の結婚をしています。

お相手は、これまた幕府に仕える女性でありました。比企一族・比企朝宗の娘・姫の前(ひめのまえ、ドラマでは比奈)です。義時は姫の前と結婚する前に、1~2年ほど彼女にラブレター(恋文)を出しまくって、猛アタックをしたようですので(『吾妻鏡』)、1190年頃には、義時の最初の妻(阿波局)は病などで亡くなっていたと考えられます(ちなみに、ドラマでは、義時は比奈に猛アタックするどころか、当初は冷めた感じでしたし、比奈も同様でした。それがいつしか、比奈が義時に想いを寄せ、義時もそれを受け入れるという展開でした)。

▲義時が愛した二人 イラスト:稲村毛玉

義時の近くにいた二人の「阿波局」

では、義時の最初の妻・阿波局は何者なのか? 『鎌倉殿の13人』で時代考証を務める坂井孝一先生(創価大学教授)は、この阿波局こそ、八重ではなかったかとされるのです。

ちなみに、八重というのは、ドラマにおいては、伊豆国伊東の豪族・伊東祐親の娘(三女)とされ、伊豆に流罪となっていた源頼朝の最初の妻となった女性です。しかし、この伊東祐親の娘が本当に八重という名だったのか、義時の妻になったのかということは、史料で確かめることもできず、謎と言わざるを得ません。   

ここでは便宜上、八重という名で通しますが、八重は頼朝と別れてからは、江間次郎という伊豆の豪族に再嫁したとされます(平家方についた江間次郎はその後、討死)。江間は北条の隣の土地ですが、頼朝から北条義時に与えられることになります。そのような過程を経て、義時は八重と結婚したのではないか、というのが坂井先生の説です。

しかし、この説は坂井先生ご自身も「推論」「論証できない点も多い」と認められているように、根拠は薄弱です。   

あくまで、私自身の推測を述べると、幕府御所に仕える女性に、八重とは別人の「阿波局」がいた。義時が彼女に恋をして、二人は結ばれ、泰時が生まれた。

ところが、この阿波局は残念ながら、病で1190年頃に亡くなってしまった。独身となった義時は、その頃、再び、女官の姫の前に恋をして2年後に頼朝の仲介もあり結ばれた。こう考えることもできるのではないかと思います。  義時の妹が後に「阿波局」を名乗ったことが、義時の最初の妻を意識してのことだったのか、それとも単なる偶然なのかはわかりませんが、私は阿波局は時代を前後しつつも、二人いたと考えています。

▲北条義時が建立されたとされる北條寺 出典:barman / PIXTA