島津氏は朝鮮への重い軍役も耐えられなかった
戦国大名の気風が色濃い島津氏が名実ともに豊臣大名となれるかどうかの試金石は、朝鮮出兵で秀吉から命じられた軍役を果たせるかどうかにあった。秀吉は諸大名に「際限なき軍役」(山口啓二・一九七四)を押しつけ、それがついに対外侵略にまで拡大していくのである。
しかし、すでに見たように、島津氏は国内での諸課役もつとめられないことが多いのに、対外侵略戦争の重い軍役に耐えられるはずがなかった。それを象徴していたのが、文禄の役での義弘の出陣である。文禄元年(一五九二)当時、義弘は大隅国栗野を居城としていたが、軍勢の督促をしても、なかなか兵や武器などが集まらず、わずか二三騎で栗野を発している(二一八二一号)。
そして実際に義弘が朝鮮半島に渡海する段になると、一気にその限界が露呈した。病中の義久に代わった義弘は渡海のため、肥前国名護屋に決められた期日までに何とか着到した。しかし、いくら待てども、肝心の軍船が国許から一艘も送られてこないのである。渡海の軍役については、島津家中の意志決定機関である老中衆の談合で定められていたにもかかわらずである。義弘の嘆きが悲痛である(二一八八三号)。
「龍伯様(義久)のおんため、御家のおんためと存じ、身命を捨てて名護屋へ予定どおり参ったのに、船が延引したため、日本一の遅陣になってしまい、自他の面目を失ってしまった。(中略)無念千万である」
「日本一の遅陣」は決して大げさではなかった。義弘はしかたなく名護屋から賃船で供廻わずか五、六人を連れて壱岐まで渡り、そこからたまたま大隅国加治木から替米を運んできた五枚帆の船に乗船して対馬に渡った(二一八八三号)。「浅ましき(なさけない)体で涙も止まらない」と義弘が嘆くのも無理はない。九州きっての大大名の渡海はかくも惨めなものだった。
七年近くにわたる朝鮮陣で島津家はボロボロに
その後も島津家中の混乱はつづいた。
文禄元年(一五九二)六月、地頭の梅北国兼が過重な軍役負担に嫌気がさしたのか、名護屋へ赴く途中、加藤清正の支城佐敷城を占領するという反乱を起こす。反乱は数日で鎮圧されたが、この梅北一揆がきっかけとなり、義弘の次弟歳久は家来たちがこの一揆に加担したという嫌疑を受け、秀吉の命で成敗されてしまった。
島津氏や義弘にとって、七年近くにわたった朝鮮陣は惨憺たるものだった。義弘は嫡男久保も病気で失っている。また永年国許を留守にしたために、蔵入地が荒廃していたのも大きな問題だった。義弘が帰国後、二男忠恒に送った書状によれば、二〇万石の蔵入地のうち、七、八万石も荒れているので「さて〳〵笑止の至り」だと憤慨している。これは七~八万石分の知行地からの年貢が収納できない状態になっているということだろう。しかも、「帖佐方蔵入荒地、多きの由に候」とあり、義弘の蔵入地に荒れ地が多かったという(三一一一〇八号)。
義弘の蔵入地が荒れた理由は、朝鮮に出陣していた時期、蔵入地に居住する百姓から夫丸(陣夫)や水手を多数徴発しないように申し付けていたのに、家臣たちがその命令に従わなかったから人手不足となり、耕作が荒れてしまって不届き極まりないと義弘は述べている(右同書)。
関ヶ原合戦において、義弘は太守でなかったので、領国全体に対する軍事動員権を有していなかった。そのため、義久や忠恒の家臣団はむろん、一所衆と呼ばれる大身の一門衆や国衆からの協力もほとんど得られず、自分の直臣団以外はほとんど動員できなかった。自分の直臣団を動員するにも蔵入地からの収入が財政的な裏付けになるはずだった。しかし、こういう状態だと、それも多くは望めない。この書状は関ヶ原合戦のわずか四カ月前である。実際に関ヶ原の合戦で義弘の軍勢は少なかったわけだが、その背景には、国許の蔵入地の荒廃にもその一因があったのではないだろうか。