関ケ原の戦いにおいて、石田三成率いる西軍が徳川家康率いる東軍に敗れ、西軍は次々に各部隊が敗走するなか、戦いの中孤立した島津義弘率いる300とも言われるわずかな軍勢は故国をめざし、敵中突破を敢行する。
これが俗に「島津の退き口」と呼ばれる、世界史でも類を見ない「前進による退却」である。
通常であれば、孤立する前に退却するか降伏するか、寝返るかであるが、この時に島津義弘がくだした決断に至った経緯は諸説存在する。
「島津の退き口」について、もっと深く知りたければ、まず関ケ原の戦いに対して、島津義弘がどういうスタンスであったのか、そこを知る必要があるだろう。
歴史作家、武蔵野大学政治経済研究所客員研究員で、主に戦国・織豊期や幕末維新期を中心に執筆・講演活動を行っている桐野作人氏に、関ケ原の戦い前の島津氏の動きについて解説してもらう。
※本記事は、桐野 作人:著『関ヶ原 島津退き口 - 義弘と家康―知られざる秘史 -』 (ワニブックスPLUS新書)より一部を抜粋編集したものです。
豊臣政権に対して、義久と義弘の対立構造
島津氏は天正十五年(一五八七)五月、九州まで出陣してきた豊臣秀吉に降伏し、豊臣大名となった。それまで九州のほぼ全域を勢力圏におさめていたにもかかわらず、薩摩・大隅両国と日向国諸県郡だけに押し込められることになった。
しかも、それまで曲がりなりにも太守(薩摩・大隅・日向の三カ国守護の称号)である島津義久(義弘の兄)の下に一元化されていた領国支配が、薩摩国は義久、大隅国(肝属郡を除く)は義弘、老中筆頭の伊集院幸侃は肝属郡、島津久保(義弘嫡男)は日向国真幸院という具合に知行地が分割されることになった(二一三二八~三四号)。
ほかにも、日向国庄内の北郷時久、大隅国清水の島津以久、薩摩国出水の島津忠辰など万石以上の一門・国衆が健在だった。ひとつの領国に豊臣政権に承認された大名クラスの上級領主が数人も存在するという多元的な領国支配構造は島津氏全体の意志決定を曖昧かつ複雑にし、豊臣政権への対応をおのずと鈍重にしていく。
それだけでなく、秀吉は島津氏に対する領朱印状と知行方目録を太守義久ではなく次弟義弘に与えて、露骨に義久の太守権を制限した。その後、義久はこの仕打ちを忘れることなく、豊臣政権に対して距離を置き、太閤検地などに非協力的な姿勢を示す。
豊臣政権による島津領国への干渉・介入が決定的になったのは文禄三年(一五九四)から翌四年にかけた太閤検地である。石田三成を総奉行とする竿入(検地)により、島津氏領国は表高(天正御前帳の二二万四七〇〇余石)から二・五倍の五六万九五〇〇余石の石高を打ち出した。しかし、領知朱印状と知行方目録は相変わらず義弘に宛てられたばかりか、義久の知行地が今度は薩摩国から大隅国に移されてしまった(二ー五四四~一五四六号)。さらに秀吉蔵入地や取次(大名への指南・指導役)をつとめた石田三成・細川幽斎の知行地、合わせて二万石弱も設定された。
また検地によって多くの出目(増加分)を打ち出したため、家臣団の知行高は実質的に目減りした。たとえば、一〇〇石取りの家臣の知行地を厳密に検地すれば、二〇〇石以上の知行高が検出されることもある。その場合、表高の一〇〇石のみ与えられて、残りの一〇〇石以上は収公されるという仕組みである。こうした知行高削減を意識させない目くらましとして、家臣団の強制的な所替えが断行された。
太閤検地によって島津本宗家(義久・義弘)の蔵入高は大幅に増加したものの、家臣団のほとんどは割を食い、得をしたのは義弘や検地に立ち会った伊集院幸侃など豊臣政権に親近的な者だけだった。義弘は蔵入地が一万二〇〇〇石から一〇万石に、幸侃も二万一〇〇〇石から八万石へと大幅に知行地が加増された。家臣団の怨嗟の声が、この両人に向かうのは半ば必然だった。
薩摩国の鹿児島には島津氏六代氏久(一三二八~一三八七)以来、三百年近くにわたり、守護居館(東福寺城・清水城・内城)が置かれてきた。そこから立ち退かされるとあっては、義久が豊臣政権からの不信任だと理解しても無理はない。義久は鹿児島から大隅国富隈(現・霧島市隼人町)に居館を移して、代わりに義弘に鹿児島に入るよう勧めた。これは義久なりの豊臣政権への異議申し立てであり、同時に優遇される義弘へのあてつけだったのだろう。兄の皮肉な勧めに苦慮した義弘は鹿児島には二男忠恒(のち家久)を入れて自分は大隅国帖佐に留まり、兄への忠節を失っていないことを示そうとしたほどである。
こうして、豊臣政権に対する態度の違いとして、遠心的な義久と求心的な義弘という対立的な構図が家中に形成されることになった。豊臣政権が義弘を島津氏の代表と認定したことは、義弘の主たる政治基盤をより強く豊臣政権に依存させることになり、結果として島津家中での義弘の孤立化を招くことになった。この構図は関ヶ原合戦にも尾を引いており、国許からほとんど支援を得られず、義弘の苦境をもたらすことになるのである。
石田三成に叱られ、家老に愚痴をこぼす義弘
そんななか、義弘は豊臣政権によって引き立てられた恩義もあり、「公儀」への奉公第一と奔走するが、義久をはじめ家中からは理解されず、島津氏の取次の石田三成からは不審を抱かれて叱責されてしまう。天正十七年(一五八九)四月、義弘は信任する家老鎌田政近に愚痴をこぼしている。これまで懇切だった三成の態度が最近急に強硬になり、「島津家の滅亡はほど近い」と脅され、次のように厳しく申し渡されたと述べている(二一五八七号)。
「まず国持の大名は、毛利、徳川、その次には島津である。しかし、(島津家は)関白様(秀吉)の御用になることを何ひとつ果たしていない。たとえある国で一揆など蜂起があったとして、(島津家が)先手の人数に召し加えられても、無人数ではつとめることもできない。もしそれが無理ならば、関白様のおそばに、せめて乗馬の四、五人で島津と名乗って参上すればよいのにそれさえしない。あるいは、(関白様の)御前向きの御咄衆への用向きもせず、普請などの御用にも役立たない。こんな国侍はだれであっても、長久に国を保つことができようか」
島津氏が軍役をはじめ諸課役をつとめられないことへの三成の痛烈な批判である。三成はさらに「(島津は)龍造寺・鍋島・立花・伊東といった九州の他の大名にも劣っているではないか。誠に言語道断で、もってのほかである」とまで非難しているほどである。
三成の島津家中への遠慮のない介入・指導、それにおののく義弘、一方でわれ関せずと無関心を決め込む義久。なかでも、義弘が三成と義久の間で板挟みになるという構図は、ほとんどそのまま関ヶ原合戦のそれにつながる。もっとも、関ヶ原合戦では秀吉がすでにこの世の人ではなかった。そのことが三成、義弘、義久の新たな対応を引き起こすことになる。