秀吉他界、義弘も長い懊悩と憂鬱から解放
慶長三年(一五九八)八月、太閤秀吉が他界した。これにより、秀吉亡き豊臣政権は朝鮮半島からの撤退を決断した。義弘もようやく長い懊悩と憂鬱から解放された。
そればかりか、豊臣政権は義弘の軍功を高く評価した。明・朝鮮連合軍一〇万を撃破した泗川の戦い、順天城に孤立した小西行長らを救出した露梁沖海戦が武功抜群と認められ、北薩の出水郡(改易された薩州島津家旧領)と島津氏領国に設定されていた秀吉蔵入地など(石田三成・細川幽斎の知行地も含む)を合わせて五万石を加増されたのである。朝鮮陣で改易や減転封された大名は少なくないが、加増されたのは島津氏などわずかな大名だけである。
この加増の決定には徳川家康の意向が働いたか否か諸説ある。ここはやはり、三成が太閤遺命(秀頼が十五歳になるまで知行の沙汰はしない)を盾に反対したのを、家康が「前代未聞の軍忠」だとして押し切ったという、島津側の「御当家御厚恩記」の記事が興味深い。家康関与説が妥当かもしれない(西本誠司・一九九七)。
翌四年(一五九九)二月、義久が女婿で甥の忠恒に正式に家督を譲った。これに先立ち、文禄三年(一五九四)に忠恒は豊臣政権の命で義久の家督継承者に指名されていた。そのときから、島津本宗家は本来の太守である義久と豊臣政権が公認する義弘が両立する「両殿」から、忠恒を加えて実質的に「三殿」体制になっていた。同年のものと思われる忠恒の起請文前書が残っているが、それには次のように書かれていた(『島津家文書』二一一一三九号)。
「一、惣御家中定め 御両殿召し仕らる人数、又我等召し仕るべき衆、当分は相分かつべく候、(後略)」
「御両殿」(義久・義弘)の家臣団と自分の家臣団は当分の間分けると、忠恒は書いている。その後もこの分立状態は解消されずに、ずっと維持され固定化されてしまった。そして太閤検地を経て、義久が大隅国富隈、義弘が同国帖佐、そして忠恒が薩摩国鹿児島をそれぞれ居城としたのである。これに伴い、家臣団も「三殿」ごとに別々に編成されることになった。当然、島津家中の意志決定のあり方が義久に一元化されていた時代よりもずっと複雑になっていたのである。
島津忠恒が伊集院幸侃を手討ちにした余波
家督交替の直後、一大異変が勃発した。三月九日、忠恒は伏見屋敷で筆頭老中の伊集院幸侃を手討ちにし、そののち、洛北高雄(神護寺か)に入って蟄居したのである。幸侃は「御朱印衆」という特別の地位にあった。これは秀吉が与えた朱印付きの知行方目録に名前と知行地が記載されていたことからそう呼ばれた。豊臣政権から見れば、本来は陪臣(臣下に仕える家来)だが、秀吉から直接知行を宛行われる形をとっていることから、秀吉の直臣に準じる処遇を受けた。したがって、忠恒は秀吉直臣を殺害したに等しいのである。これに三成が激怒したのも当然である。
もともと豊臣政権に対する島津家中のスタンスは複雑かつ分裂的で、義弘ー幸侃ラインが三成を通じて中央政権への求心力を高める傾向があるのに対して、義久と家中の多くが旧戦国大名とその家臣団らしく、統一権力に対して距離を置き、独自性や自律性の余地を残そうとしていた。
忠恒は家督継承の道を開いてくれた三成に恩義があり、どちらかといえば前者の立場で実父義弘に従うかにみえたが、舅義久からの家督譲渡という恩恵にも拘束されていたともいえる。その後、関ヶ原合戦直後まで忠恒は一貫して義久の統制下にある。そして、義久が忠恒を含めて国許の家中を掌握したことが、関ヶ原合戦への参陣が消極的になる要因でもあった。義久の関心は中央政局の動向よりも、豊臣政権によって制約されていた自身の太守権回復に向けられていたのである。幸侃殺害がその好機となった。義久は、この事件への反発から挙兵した伊集院忠真(幸侃嫡男)の反乱(庄内の乱)の鎮圧を主導することによって、家臣団を再掌握することに成功したのである。
ではなぜ、忠恒は豊臣政権=三成から処罰されるのをわかっていながら、島津家の大黒柱である筆頭老中をこんな荒っぽい形で処断したのだろうか。
ひとつは、忠恒は気に入らない家臣や権勢の強い家臣にはすぐ制裁を加える直情径行型の人間だと指摘されている(山本博文・一九九〇)。
次に「御朱印衆」である幸侃の格別の地位が関わっていたと考えられる。幸侃は三成が主導した島津氏領国への太閤検地に立ち会った関係から、家臣団の知行配当を一手に差配する立場になった。家臣団の知行はむろん、義久・義弘・忠恒の領知分に関しても、幸侃の匙加減ひとつになるというほど権勢を誇った。
太閤検地では、家臣団への配当が予定された給人加増分一二万五〇〇〇余石が留保されていたが、それを管理するのは太守義久ではなく豊臣政権であり、実務は幸侃に委任されていた。ここに豊臣政権の島津氏内政への浸透と幸侃の権勢が見てとれる。朝鮮に在陣していた忠恒はそのことをあまり理解していなかったらしく、朝鮮で功労のあった自分の家臣たちに給人加増分から取り崩して加増を要求したところ、幸侃から拒絶されるという一幕があった(三一五・二〇号)。
幸侃とすれば、給人加増分を家臣団に配当すれば際限がなくなってしまうから、ほとんどの配当を凍結する方針でいた。だから、たとえ忠恒の要求でも例外を認めたくなかっただけだった。しかし、このことがきっかけとなって、面目を失った忠恒の幸侃への恨みや憎しみが募っていったことは想像に難くない。秀吉の「御朱印衆」とはいえ、忠恒から見たら幸侃は家来にすぎない。給人加増分の配当権を幸侃が握ることは大名権限の侵害であり、家来の分限を越えているという、素朴で杓子定規な身分意識があったのではないか。幸侃殺害事件の背景にはこうした事情があったのである。
また、幸侃殺害が忠恒の独断なのか、それとも義久や義弘の承認を得たものなのかという疑問も残っている。これについては独断説が有力だが、忠恒自身が事件から三十五年後の寛永十一年(一六三四)に次のような覚書を残している(五一八〇〇号)。
「なかんずく伊集院右衛門大夫入道幸侃威勢を誇り、国を傾けんといたし候を、右三人見及び、龍伯公・惟新公えご内意を得奉り、諸人幸侃え心を合わせ候らわぬ様にと計策を廻らす」
「右三人」とは、家督継承者に指名されたばかりの若い忠恒の付家老となった伊集院抱節・鎌田政近・比志島国貞のことである。この三人が幸侃への同調者が増えないよう、義久(龍伯)・義弘(惟新)の内意を得て、いろいろ策略をめぐらしたというのである。何となく義久・義弘の内諾を得たうえで殺害を決行したことを示唆しているようにも読めるが、これだけでは義久・義弘が幸侃殺害の密命を下したとは断定できない。それでも、幸侃の勢力拡大に島津本宗家全体が危機感を抱いていたのは確かかもしれない。