はじめまして。お笑いコンビ・カカロニのすがやという者です。

普段はコンビで活動しています。僕が2014年のブラジルW杯から三大会連続でW杯を現地観戦し、2018年ロシアW杯で観客席に飛んできたシュートをヘディングでクリアしてバズったあたりから、「サッカー大好き芸人」と呼んでいただいています。

この度、WANI BOOKS NewsCrunchでサッカーのことを好きに書いていい、というありがたい連載の機会をいただきましたので、記念すべき第1回は、僕のサクセスストーリーではないサッカー人生について書いていこうと思います。

体内の鉄分が7しかなくて走れない・・・

1991年生まれの僕は、名門・浦和南高校で水沼貴史さんのひとつ年上だった父の影響で、物心ついた頃からボールを蹴るようになりました。まあ、父は帰宅部なんですけど(笑)。

地元の少年サッカーチームでは、小狡さを駆使して区大会の優秀選手賞をもらったり、区選抜に入ったりした僕ですが、中学生になり、圧倒的な才能の欠如に気づきます。

▲小学生時代のすがや少年(写真:本人提供)

中学3年で身長150cm。細身。だからといって俊敏でもない。それどころか50m8秒台というポケモンで言ったらキャタピーみたいなスペック。レベル100まで上げたとて……みたいな。

世に「凡才が努力で天才を倒す」みたいな作品は数多ありますが「めちゃくちゃ努力してやっと凡才に追いつく」くらいの才能の人間もいるということを、当事者として知ることになりました。

ちゃんとした指導者がいなかった中学3年間を漠然とグラウンドでボールを蹴って過ごした僕は、地元の公立のなかでは少し強いくらいの高校に進みます。そこで僕はサッカーの基本戦術を学び、あとはひたすら走りました。

夏合宿で監督から「今日、1失点するごとにゲレンデダッシュ10本な」と言われた日に、Aチームが0-9で負けたときはさすがに泣きました(自分が出てない練習試合で泣くな)。

上田西って地元の公立校みたいな名前なのに強豪私立なのかよ……全国出てるじゃねぇか……。と、対戦相手の上田西高校を憎む僕に、さらなる地獄が襲いかかります。高1の終わりくらいから、体力が増えないどころか減っていくのです。

サッカー部史上初じゃないでしょうか? 体力なさすぎて高尾山で高山病になったやつ。走れない僕のせいで連帯責任の走りが増え、周りからは嫌われ、好きだったサッカーも楽しくなくなり、はじめてサッカーをやめようと思いました。

そんな僕はある日、練習をサボって病院に行きました。サボって、です。病院という口実で逃げたのです。

「体力ないんですけど、なんかの病気じゃないですか?」

と聞くと、お医者さんは「お前の努力不足だろ」と翻訳できるくらい深いため息をつき、血液検査をしてくれました。採取した血液を機械に入れると、いろんな数値が書いたレシートのような紙が出てきました。

それを見た看護師さんが

「すいません! ビックリマークいっぱい出たんですけど!」

と、お医者さんに耳打ちしました。看護師さんもビックリマークを出しながらの耳打ちだったので僕にも聞こえました。すると、紙を確認したお医者さんは僕の目を見て言いました。

「君はね、一般の人の体内に60〜200はあると言われてる鉄分が、7しかないよ」

……なな? 7!?

「こんな状態で高尾山に登ったら死ぬ恐れがあります」

え? 僕にとっての高尾山はエベレストなの??

僕は『重度鉄欠乏性貧血』(スポーツ貧血)というもので、成長期に過度の運動をするとなることがあるらしく、川崎フロンターレの山根視来選手も高校時代になったことがあるそうです。

そして、これが治ったとき、貧血で半年くらい超高地トレーニングみたいな負荷を身体にかけてた分、スタミナがブロゾヴィッチ(インテル/クロアチア代表)になっていたのです(皆さんは違和感を覚えたらすぐ検査してください)。

走れるようになると、常にいたいところにポジションを取れるし、走り勝って簡単に数的優位を作り出せる。そして、この頃から急激に身体が大人になり、身長も170cmを越え、50mも7.0秒に(それでも相当遅いけど)。僕はサッカーが楽しくて楽しくてしょうがなくなりました。

▲高校時代のすがや(前列左から2人目の8番/写真:本人提供)