ソビエト、中国が戦後日本を内部崩壊させるべく行っていた恐るべき洗脳工作の実態とは? 長年にわたり左翼問題を第一線で取材してきた福田博幸氏が、日本を蝕む「内なる敵=左翼」と戦い続けてきた政府機関の真実に迫ります。

官庁や企業に潜り込んでいた「帰還兵」というスパイ

1952(昭和27)年4月9日に誕生した内閣情報調査室の当時の任務は、ソビエトや中国からの帰還兵にまぎれて帰国したスパイや工作員をチェックし、監視することでした。

第二次世界大戦が終わったとき、日本軍が武装解除したのちに参戦してきたソビエトによって、85万人の日本人がソビエトに連行され、シベリアに抑留されました。そして12万人が捕虜として死亡しました。これは日本の歴史のなかでも一大惨劇です。

▲シベリア抑留からの帰還兵(舞鶴港、1946年) 写真:Wikimedia Commons

ソビエト当局は、過酷な強制労働と思想謀略によって日本人の団結を破壊するために、次のような方法をとりました。

第一に、食べ物の量を最小限に制限しました。そのうえで、ノルマによって差別支給制を実施し、生きるためには強制労働に服さなければならないように仕向けました。

第二は、思想謀略です。日本人が団結できないよう、共産主義に賛成する日本人を「民主主義者」と称して特別の保護奨励を与える一方、共産主義に賛成しない日本人を「反動」と呼んで迫害、脅迫し、日本人を二つに分裂させて相争わせる方針をとりました。

ソビエトに煽動された民主主義者の日本人は、反動の日本人を迫害、脅迫して、日本人が日本人を殺すという同胞相食む悲劇を多く生んだのです。

民主主義者の彼らは、ソビエトを労働者階級の祖国であり指導者と賛美して、スターリンに感謝文をささげました。また、彼らはほかの日本人の前歴や言動を暴いてソビエト当局に密告し、監獄に送る運動をしたり、反動の日本人を帰国させないよう当局に請願したりしていました。

このようにして、ソビエトは、シベリアに送られた抑留者を思想工作したのち、スパイとして養成し、帰還兵として日本に大量に送り込みました。

多くの帰還工作員が企業や公務員として潜り込みました。なかでも多く潜り込んだのが、帰還兵の救済策として雇用を受け入れた「国鉄」でした。

国鉄内で日本共産党系労組「革同」(国鉄労働組合革新同志会)を束ね、「国労の諸葛孔明」の異名をとった細井宗一も内調の調査対象者のひとりでした。伊藤忠商事の会長に上りつめ、中曽根康弘のブレーンも務めた瀬島龍三も調査対象者のひとりでした。

いずれもシベリア抑留を経験した旧軍人です。シベリア抑留者のなかで最も思想工作に弱く、共産主義への寝返りが早かったのが旧軍人たちだったと、当時の抑留関係者は証言しています。

▲瀬島龍三 写真:Wikimedia Commons

ちなみに、当時、日本人捕虜の洗脳工作を行い、ソビエトの対日工作をした総元締めはイワン・コワレンコという人物です。ソ連共産党国際部日本課長だった彼は、多くの対日工作員を養成しました。

▲1956年にシベリア抑留から帰還した瀬島龍三。ひとりだけ服装が違う(右矢印の人物が瀬島。筆者提供)

そのおもな対象は、元政治家、実業家、官僚やジャーナリスト、学者などでした。1950(昭和25)年には500人の日本人スパイが養成され、当時のスパイ機関MVD(内務省)によってつくりあげられた通報者(潜在スパイ)は約8000人と言われています。

合わせて8500人の日本人スパイがコワレンコによって編成され、1948(昭和23)年ごろから次々に帰還したのです。