「同じ日本人としてつらかった」「任務をどのように果たしても“恨み”を買うことになる」「スパイを監視する私らが家族を持ったら、自分で弱みを抱えたことになり、本来の仕事はできなくなる」……内閣情報調査室のプロパーとしてインテリジェンスに従事してきた人物は淡々とそう語った。

長年にわたり極左問題を第一線で取材してきた福田博幸氏が、日本を蝕む「内なる敵=極左」と戦い続けてきた政府機関の真実に迫ります。

野武士的集団だった「内調プロパーの組織」

通称「内閣調査室」は、1952(昭和27)年4月9日に「内閣総理大臣官房調査室」として誕生しました。時の総理大臣・吉田茂が、国家地方警察本部(現・警察庁)警備課長だった村井順に命じて創設したものです。

筆者は、現役記者時代に「巨大労組」の横暴にたびたび直面し、巨大労組こそ“権力そのもの”との結論に達しました。そして、そのタブーに挑戦すべく、記者仕事の傍ら、月刊誌『全貌』に無署名記事を書いていました。

『全貌』を発行していた全貌社(日本共産党や共産主義、社会主義を批判する雑誌、書籍を多数刊行してきた出版社)には、治安機関に携わる人たちが多数出入りしていて、さながら梁山泊の様相を呈していました。

警察官はもちろんのこと、自衛隊の調査隊、公安調査庁、治安関係の記事を書くライター、評論家、そして内閣調査室の人たちもいました。夕方、編集部に立ち寄ると、編集長が立ち寄った人たちをそれぞれ紹介してくれ、お互いに誘い合って“夜の部”に流れるという交流も活発に行われました。今も各機関の関係者との交流は続いていますが、すべてこの時代から始まっています。

全貌社への出入りが始まったのが25〜6歳ごろでしたから、各機関とのつきあいも、かれこれ50年近くなります。なかでも、特別に目をかけていただいたのが内調プロパーの花田惟孝でした。

現在は「内調」といっても、警察や公安調査庁等からの出向者がほとんどです。人数は多いのですが寄せ集め部隊という欠点があり、その任を十分に果たせていないのが正直なところでしょう。

当時は、内調プロパーという“核”になる人たちがいて、そこに警察や公安調査庁という組織からの出向者が参画し、それぞれの組織にはない手法と幅広い視点を学び、再び出向元に戻るという機能が好循環していたように思います。

絶対的縦社会からやってきた出向者は、自由闊達に動く野武士的集団だった「内調プロパーの組織」にはすぐにはなじめなかったのかもしれません。逆になじみすぎて、もとの組織に帰ってから苦労したという話も聞いています。

▲内調が属する内閣官房の組織図 出典:内閣官房ホームページ

警察官僚とも異なる内調プロパーの独自人脈

花田は広島県呉市出身で宮司の家に生まれ、1992(平成4)年8月4日に亡くなりました。

筆者が30歳当時のエピソードがあります。

ある日、花田から「一杯やろう」と誘いがありました。赤坂のTBS前で待ち合わせ、ついていくと、溜池の日商岩井本社裏にあった、すき焼き店「松亭」に案内してくれました。その際、女将が出迎えてくれたのですが、驚いたことに、近衛文麿の生き写しでした。あとで花田に聞いたところ、近衛公のお妾さんの子どもだということでしたから、そっくりなはずです。

部屋に通されて座ると、ビールが運ばれてきました。花田は「ビールを飲んで少し待っていてくれ」と言って部屋を出ていきました。少し待っていると、FAXの束を抱えて戻ってきました。そして部屋に戻るなり、そのFAXを一枚一枚めくり、チェックし始めます。読み終えて、ようやくテーブルに座り直し「明日の朝刊は大きな問題がなさそうなので、ゆっくり飲もう」と言って、会食がスタートしました。

内調プロパーの人たちは警察官僚と違った独特の人脈とアンテナを持っていましたが、大手新聞社にもアンテナは張りめぐらせていたようです。この日、会食の前に、花田は主要全国紙のゲラ刷りに目を通していたのですが、会食する「松亭」に主要各紙のゲラを送信させるほどの人脈を築いていたことになります。

▲警察官僚とも異なる内調プロパーの独自人脈 イメージ:bannosuke / PIXTA