2023年の大河ドラマ『どうする家康』の第1回は「どうする桶狭間」でした。野村萬斎さん演じる今川義元のもとで、若き頃の徳川家康こと松平元康が桶狭間の戦いへと向かいます。その後の展開は、歴史の教科書にも載っているほど有名ですが、はたして事実なのでしょうか。憲政史家・倉山満氏が、歴史の勝者となった三河武士団のプロパガンダを暴きます。

証拠がない!? 家康と信長の清洲会談

永禄3(1560)年、桶狭間で今川義元は頓死しました。重臣たちも軒並み討ち死にです。徳川家康と三河武士団は、この好機を見逃しませんでした。

義元死後の今川家は、息子の氏真が継ぎます。氏真は、気位が高いわりに無能で、最も得意なのは蹴鞠。平安時代の公家ならともかく、戦国大名には向きません。

当時、家康は「元康」を名乗っていましたが「家康」と改名します。今川家への絶縁をPRしたのです。そして、義元を倒して勢いに乗る織田信長との同盟に走ります。いわゆる「織徳同盟」です。

その後、家康は、外交的駆け引きで、人質だった築山殿と跡取り息子の信康を取り返しました。同盟を切るという決断は、人質を殺される覚悟でやるわけですから大変です。当主がいきなり同盟相手を裏切っても、下がついてくるとは限らないですし、それまでの利害関係も調整しなければなりません。

松平家は織田家と同盟を結ぶために、桶狭間の戦い以後もしばらくは今川家についてわざと小競り合いをたくさんやり、信長に実力を認めさせてから清洲に赴き対等な同盟を結んだ、とはよく言われることです。

▲桶狭間古戦場公園(愛知県) 写真:T-Urasima / PIXTA

しかし、これは三河武士団のプロパガンダのようです。

平野明夫「信長・信玄・謙信を相手に独自外交を展開した家康」(『家康研究の最前線』所収/洋泉社新書/2016年)によれば、信長と家康の清州城での同盟締結を記している文書で最も古いのは貞享3(1686)年の『武徳大成記』で、比較的早い時期の成立で一定度の信頼性がある『信長公記』には記述がなく、『松平記』『三河物語』にも記述されていないことはもちろん、同時代の作成文書、日記や記録にも見えません。

そのため、平野氏は《史料的には家康が清洲へ赴いたことは証明できない。史料がないことと、事実としてないこととは、イコールではない。しかし、事実を疑わざるをえない史料状況であることはまちがいない》としています。

ちなみに、記述のある『武徳大成記』は、江戸幕府第五代将軍徳川綱吉の命令で、老中阿部正武が監修した本です。わからないことは「わからない」として安易な結論を下さないことも、惑わされないコツです。

現実の織徳同盟と呼ばれる同盟を見てみると、その実際は、家康が「信長の盾」になっていることがわかります。ただ、本来同盟とはそういうもので、お互いの利害を調整して合意し、維持するものです。

織徳同盟のおかげで、信長も家康も二正面作戦を展開しなくてすみました。「信長が西の京都に向かい、家康が東の守りを固めさせられた。信長にだけ都合が良い同盟だ」とするのはさすがに言い過ぎです。そもそも、家康は天下なんか目指していないのですから。

家康が天下を取ったあとに「横暴な信長の前に、徳川には他に道がなかった」と苦難の印象を強調するプロパガンダに、引っかかる必要はありません。ちなみに、松平家はこの頃に「徳川」と改名します。「徳川家康」の誕生です。三河には「松平」姓の土豪が多すぎたので、格の違いをアピールするための改名です。戦国時代こそ、言葉が武器なのです。

ごまかしきれなかった「三河一向一揆」

永禄6(1563)年、「三河一向一揆」という大事件が起こります。通説では、桶狭間以降の家康が今川家の支配を脱しながら、三河を領国化していく過程で生じた最大の戦い、とされています。三河本願寺教団および反家康連合との戦いです。つまり、内ゲバです。三河武士団は結束が高いとはよく言われながらも、実際に起きてしまった凄惨な内ゲバでした。

のちに家康の懐刀となる本多正信は、一向一揆側に与した武将でした。その後、許されて家康のもとに帰参するのに5年以上かかっています。NHKの大河ドラマ『真田丸』では近藤正臣さんが、『どうする家康』では松山ケンイチさんが演じたので、覚えている方も多いでしょう。

▲本多正信(佐々木泉龍:画) 出典:藩老本多蔵品館 / Wikimedia Commons

三河一向一揆については、前掲『家康研究の最前線』に仏教学者・安藤弥氏の詳しい論文が掲載されています。

そのなかで安藤氏は「一部の門徒武士が、家康に離反して一向一揆側に走った理由を、反家康・親今川の文脈のみで理解することはできない。本願寺門徒だから一向一揆に与するという心情と行動については、やはり信仰の問題も含む別の文脈を用意する必要がある」と述べています。

当時、一向一揆は日本中を席巻していました。中東におけるイスラム原理主義のようなもの、フェイスブック革命みたいなもので、国境を飛び越えて展開していました。

北陸をはじめ近江(滋賀県)でもしょっちゅう起きていて、国境に関係なく勝手に民衆が入り込み、個々の武力は弱いくせに数だけ多くて、いきなり蜂起しては大名を困らせるといったことを繰り返していました。

なびく人間が多くなれば、結局は宗教問題ですから主君の言うことなどは聞かず、大変な内ゲバ騒動になったわけです。さすがにこれは、三河武士団も記録としてごまかしきれなかった、というところでしょう。