現在放送中の大河ドラマ『どうする家康』。冒頭に流れる寺島しのぶさんのナレーションが、徳川家康を“神の子”として崇める語り口が特徴的です。賢く強くなければ敵に滅ぼされる戦国時代の日本人は、現代の歴史家をも欺くほどにプロパガンダを使いこなしていました。憲政史家・倉山満氏がプロパガンダ合戦ともいえる戦国時代の実態を紹介します。
戦国時代を生き残った徳川家康と家臣たち
徳川家康の生涯を簡単にまとめると、次のようになります。
徳川家は常に大国に挟まれ、結束して戦わねば生き残れない環境にありました。家康と家臣団は、いつしか「三河武士団」と呼ばれるようになりました。
徳川家の前身である松平家は、三河国(愛知県東部)の土豪でしたが、家康の祖父・清康の時代に周辺の土豪を束ね、戦国大名になります。しかし、その清康は24歳で戦死、幼かった子の広忠(家康の父)は辛酸をなめます。
三河は、西に尾張(愛知県西部)の織田家、東に駿河・遠江(伊豆以外の静岡)を束ねる今川家に挟まれ、広忠の時代は今川家に従属して生きていくことを選択します。幼い家康も駿河に人質として送り出されました。
しかし、広忠が暗殺されたのを機に、松平家は今川家に完全併合されます。そして、あらゆる戦で先陣を申し付けられ、今川の鉄砲玉として、あるいは盾としてコキ使われることとなりました。
松平家の男の子は家康一人。家康が死ねば、その瞬間にお家滅亡です。家臣たちは必死に戦いました。
その今川家が桶狭間の戦いで織田信長に敗れ、当主の義元が戦死するや、松平家は今川の支配から独立。織田家と同盟を結ぶこととなります。家康は律儀に信長が死ぬまで織田家との同盟を守り、苦しい戦いを耐え抜きました。
一方、今川家に代わり東方の脅威となったのは、甲斐(山梨県)の武田信玄です。信玄は、織田・徳川の両家とはじめは友好関係にありましたが、突如として裏切り、信長と家康は、信玄の子・勝頼の代まで苦しめられることとなります。
プロパガンダ合戦だった戦国時代
天正十(1582)年、本能寺の変で信長が死ぬや、天下統一直前の戦国日本は再び大乱世に突入します。
家康は新たに東方の脅威となった北条氏と対峙せねばならず、さらに信長死後の混乱に乗じて一気に信長の後継者の地位に躍り出た羽柴(豊臣)秀吉の圧力にも苦しめられます。
その後、小牧長久手の戦いで秀吉に勝利した家康ですが、国力差は埋めがたく、秀吉に臣従を誓うことになりました。やがて家康は、天下人となった秀吉に国替えを命じられ、祖国の三河や命がけで勝ち取った駿河・遠江・甲斐・信濃(長野県)の合計5か国を取り上げられ、辺境の関東に移されます。
新たに本拠地となった江戸ですが、当時は荒れ地でした。しかし、そんな荒れ地に今の東京の基礎となるような百万都市を建設すべく、家康は邁進します。
そうこうするうちに秀吉が死に、豊臣政権最大の実力者だった家康こそが次の天下人だという気運が世に芽生え、関ケ原の戦いで勝利して、江戸幕府を開きました。豊臣氏は1615年の大坂夏の陣で滅び、家康は翌年、安心したように死んでいきます。
というストーリーを、日本人ならば一度は聞いたことがあるでしょう。
しかし、これを全部信じているとしたら、見事に騙されています。もちろん全部が噓ではありませんが、本当の話の中に、自分に都合の良いような噓を巧妙に混ぜています。だから巧妙なプロパガンダなのです。
日本人が知っている徳川家康の話は、基本的に山岡荘八の小説『徳川家康』全26巻(1950年〜1967年/北海道新聞・東京新聞・中日新聞・西日本新聞連載)がベースです。
この本は、家康が59歳までの苦難の人生を耐え抜き、天下人になる生涯を描いています。ただでさえ長い本なのですが、苦難の話が21巻まで続くので、読むほうにも忍耐力が要求されます。
名作歴史小説にありがちなことですが、あることないことを面白おかしく書いてあるので、これを全部信じていては騙されてしまいます。
プロパガンダには意思があります。
この場合、家康の「徳川家の天下が続くように」という意思です。
目的と言い換えても構いません。こうしたストーリーを人々に信じ込ませることによって、徳川家を安泰にさせる狙いがあったのでしょう。
家康(と、おそらくブレーンである側近たち)は、歴史認識が「武器」だと熟知していたのです。
なぜ熟知していたと言えるか。
家康と三河武士団が勝ち抜いた戦国時代は、プロパガンダ合戦のオンパレードだからです。