かつて陸海空の自衛隊に置かれていた「調査隊」は、中国の自衛隊工作と人知れず戦い、国防に関する機密情報の漏洩防止に努めてきた。今日では「情報保全隊」として、地道な「防諜」活動で独自の成果を上げている。長年にわたり極左問題を第一線で取材してきた福田博幸氏が、日本を蝕む「内なる敵=極左」と戦い続けてきた政府機関の真実に迫ります。

中国の浸透工作に対抗してきた「情報保全隊」

自衛隊が任務を果たすための防衛施設の安全を守り、防衛上の機密情報漏洩を防護する役割を担っているのが、自衛隊の「情報保全隊」です。

かつては、陸・海・空にそれぞれ独立した「調査隊」が組織されていました。それが統合幕僚庁発足によって2003(平成15)年に行われた組織改革で廃止され、今日では情報保全隊として一本化されています。

日本の防衛力の分断を狙う中国やロシアなどの外国勢力がしかけたプロパガンダによって、日本共産党など左翼勢力が情報保全隊を海外で“スパイ活動”をしているかのように宣伝していますが、自衛隊の情報保全隊の主任務は名称のとおり、あくまで「防諜」であり、国際的には「カウンター・インテリジェンス」といわれるものです。

近年、中国資本が自衛隊施設や米軍基地の周辺を買いあさって占有しています。しかし、日本側は、それが防衛上問題だとわかっていても、取り締まるための法律がありませんでした[2021(令和3)年6月、国家安全保障上重要な土地の利用等を規制する重要土地利用規制法が成立]。そのような悪条件のなかでも、コツコツと情報を集め、事態悪化に備えてきたのが過去の調査隊です。

自衛隊を除隊したOBの監視も調査隊の重要な仕事でした。これもまた、法的に整備されていなかったため、漏洩防止の任務を果たすことは容易ではありません。そのような環境のなか、中国による自衛隊工作に対する防諜活動は一貫しており、調査隊ならではの成果を上げています。その記録の一部を紹介します。

1976(昭和51)年1月、当時、日中貿易を行っていた「日中友好元軍人の会」会長・後藤節郎(陸士60期)は、北京において、日中友好協会の秘書長・孫平化から「“日中友好活動”の一環として、自衛隊を退職した高級将官4〜5人を毎年中国に招待したいので組織化してもらいたい」との指示を受けました。

そのため、帰国後に陸士出身の知人など自衛隊を退職した高級将官に働きかけ、数人の賛同者を得て「訪中団」を結成します。これが“招待”による自衛官取り込み工作の始まりです。ちなみに、孫平化は、創価学会工作を通じて田中角栄の訪中を実現させた「対日工作四人組」のひとりです。

▲田中角栄 写真: 首相官邸ホームページ

後藤が会長をしていた日中友好元軍人の会は、終戦時に中共軍の捕虜となった日本軍人を洗脳し、中国共産党の協力者に仕立て上げた者(工作員)によって組織された中国共産党の「対日工作」団体でした。

同年10月、後藤は「三岡訪中団」(三岡健次郎元陸将ら5人)を編成して訪中しました。訪中団を迎えた中国側は、軍関係者のみならず、鄧小平との会議を設定するなど、最大級の“歓待”を行いました。感激した訪中団は、帰国後「中国政経懇談会」(中政懇)を発足させ、三岡が代表幹事、後藤が事務局長に就任。中国諜報機関のもくろみどおり、1年あまりで「自衛隊OB訪中団」の組織化に成功したのです。

1977(昭和52)年に中政懇の第一回訪中団が派遣されて以来、1998(平成10)年を除き、毎年5〜8人の自衛隊OBによる訪中団が派遣されています。

また、同会は、日本国内の活動として駐日中国大使館関係者や、来日した中国の軍関係団体との懇談や研究会などの交流を行うなど、中国の対日工作を積極的にサポートする活動も続けました。

中国の対日工作をサポートした「自衛隊OB訪中団」

1987(昭和62)年5月、米軍横田基地からテクニカル・オーダー[技術指令書=装備品などの運用・整備・安全対策などを、適正かつ効率的に行うために必要な技術的な内容を記したもの]が流出したスパイ事件の容疑者・伊達弘視からそれを買い取って中国に渡した疑いで、中政懇事務局長の後藤が逮捕されました。

後藤はその見返りとして対中貿易を有利に運ぼうとしたと自供していますが、中国は1970年代末から米軍の軍事技術情報収集に最大限の力を注ぐよう指示していますので、後藤に対しても中国からの指示があったものと見られます。事件後、中政懇は会の存続を含めて理事会で協議しましたが、後藤を“除名”にしたのみで、会の存続を決めました。中国側の意向が働いたのでしょう。

ちなみに、1999(平成11)年5月、アメリカ下院特別委員会報告書「コックス報告書」が公表されましたが、そこでは中国が1970年代後半から約20年間にわたって、アメリカの核技術をはじめ、電算機や戦闘機、艦艇などの兵器、指揮・情報・通信分野にいたるまで幅広く情報収集活動を行っていたことが明らかにされています。

日米安保条約を基調とするわが国の防衛の最高部署にいた三岡たちは、自衛隊を退職しているとはいえ「アメリカとの信頼関係を重視する」か「中国との交流を優先するか」は冷静に判断すべきだったと思いますが、後者を選択した三岡たち、そして中政懇を調査隊が一貫して監視し続けたことはいうまでもありません。

中政懇は旧軍人で構成されていたため高齢化したうえ、調査隊の監視が続いていたため、1998(平成10)年「会の当初の目的は達成された」として、会を解散する方向で一致しました。慌てたのは中国です。中国代表団が急遽、中政懇との会談を求め、会の存続を強く要望しました。

すでに訪中し、中国に“弱み”を握られていたメンバーたちは「今後は防衛大出身者にバトンタッチする」と前言を撤回し、中政懇の存続を決めました。

こうした動きに積極的に手を貸したのが、中国諜報機関の女性通訳との関係を暴露された橋本龍太郎元総理です。橋本は2000(平成12)年、みずから団長となって訪中団を組織。当時の江沢民国家主席と会談し、民間レベルの防衛交流として、中国人民解放軍の佐官将校を日本に招待することで合意します。

▲橋本龍太郎 写真: 首相官邸ホームページ

橋本元総理は帰国後、防衛庁内局幹部を呼びつけて、中国人民解放軍佐官級将校の来日に際し、その接待を講じるよう指示。部隊見学などをさせるよう要求しました。さらに、この訪問団に対する答礼として、橋本は防衛庁から佐官研修団を出すよう要求。2001(平成13)年3月に自衛隊から第一回佐官研修団を派遣し、現在も続行されています。

ちなみに、これらの交流では、橋本元総理が執拗なまでに介入し、自衛隊に対してもっと重要な部分を見せ、中国側を“歓待”するよう強い要望を出したため、防諜の現場は対応に苦慮したと聞いています。

※本記事は、福田博幸:著『日本の赤い霧 極左労働組合の日本破壊工作』(清談社Publico:刊)より一部を抜粋編集したものです。