プロレスと離れた日常へ
その後のぼくはこの夏、何事もなかったかのように日常の中へと戻った。父さんも母さんも「なんか、ちょっと見ないうちにまた大きくなったんじゃない?」と聞くぐらいで、仙台での話はいっさい口にしない。
顔中に残っている傷については、楢葉の不良中学生にケンカを売られたとごまかした。「母さんの教え通り、人を殴ったりしなかったからこうなったんだよ」と言うと「そういう時はやっちゃっていいのよ! 悪い人はこらしめてやるのが男よ」と返された。プロレスを見て、考え方がちょっと変わったんだろうか。
東京へ戻った2日後には、専門誌に仙台や矢巾での試合が載っているはずだったけれど、どうしても自分で見る気にはなれなかった。バレるほどのものかどうかわかってしまうのが、怖かった。
1週間後、新学期が始まる。クラスメイトの中に、マスクド・アンドレのことを知っている者はいなさそうだった。相変わらずプロレスの話を振ってくるけど、ぼくは努めて乗らないようにした。
本当は、プロレスの話がしたくてしたくてたまらなかったんだけど、調子に乗るうちボロが出たら大変だ。だから、アンドレと呼ばれる本当の意味をわかっていながら、勘違いしているフリを続けた。
学校では話題にもできず、家で雑誌はもちろん、ネットでもプロレスのページを見るのは気まずい。そこでぼくは高校へ入学するまで、いっさいそれに関することは目にしないよう決めた。
ぼくが通う中学校は区立だから、ほぼ小学校で一緒だった友達がそのまま入る。つまり、環境的にはそれほど変わらない。
その上で高校を卒業しても好きなままいられて、東北プロレスに戻りたい気持ちが残っていたら目指そう。なかったら、違う道を選ぶんだ。
こうして、まったくプロレスとは無縁の毎日を送るようになる。9月、10月、11月と過ぎ12月に入った頃は、夏の出来事が遠い昔のことに感じられた。
おそらく、東北プロレスの皆さんも忙しい日々の中で少しずつぼくの存在なんて忘れていくんだろうなと思った。みんな、自分のことだけで大変なのだから。
秋が過ぎ、冬が訪れてもタスケさんは体を張って闘い、運命さんは神々しく、ハヤト先輩は暴れまくっているんだろう。日向先輩はケガを治してデビューできているだろうか。井之上先輩は、もしかするともう初勝利をあげているかもしれない。
“その後”が気になって、何度となく本屋で『週刊プロレスラー』に手が伸びかかった。でそれでもギリギリのところで踏みとどまった。
一度見たら、なし崩し的にプロレスの話をしてしまうだろうと思ったからだ。クリスマスが近づき冬休みももうすぐというある日、クラスの一角で男子生徒が何やら盛り上がっていた。
ぼくは相変わらず、地名に関する本を読んでいる。町や村の名前には由来があって、それを探るのが面白く感じられた。
「アンドレ! ちょっと来てよ」
呼ばれるがまま、その輪の中へ入っていく。囲まれた机の上には、一冊の雑誌が置いてあり、ページが開かれていた。何やらいくつもの顔写真が並んでいる。
「これさ、年に一度出るプロレスラー名鑑。たくさんの選手が載っているから買ったんだけどさ、俺たちの見たことないレスラーが載っているんだ。で、このマスクマンのプロフィールに出てくる地名が読めないんだよ。おまえならわかるだろ? 読んでみてよ」
何ページかめくってから、その友達はぼくに「ほれ、ここ」と指差す。そこだけは、どの顔も見たことがある人ばかりだった。
タスケさん、運命さん、徳二郎さん、ハヤト先輩、北野先輩、現実先輩、万念先輩、菅本先輩、日向先輩、井之上先輩…それ以外の皆さんも載っている。テッドさんも因島さんもだ。そして…。
<マスクド・アンドレ――191cm、100kg。生年月日、出身地不明。8月シリーズ、登米大会で北見万念を相手にデビューし、勝利を飾る。その後、仙台、矢巾に出場。1勝1敗1分の戦績を残し、姿を消す。タスケは「フランスで木こりでもやっているんじゃないですかね、アンドレだけに。ガハハハ!」と語るが、真相は不明。東北プロレスでは「戻ってくるまで所属選手扱い」としているため、名鑑にも掲載>
「おまえとおんなじアンドレっていうプロレスラーが東北プロレスにいるんだよ。191cmっておまえよりデカいじゃん!
それで、この“のぼる”に“こめ”って書いてあるのが読めなくてさ。あと、ゆみやの“や”にずきんの“きん”? これも。ねえ、教えてよ…あれ? アンドレ…泣いてんの?」(完)