時は2000年代初期。インターネットが普及し始め、スマホではなく“ケータイ”だった頃、身長が180cmを超えながらスポーツが嫌いで、難しい地名を知ることが楽しみな漢字オタクの小学生がいました。あだ名は「アンドレ」。これは、そんな少年が東北の風景の中でプロレスを通じ経験し、人生を学んだひと夏の物語です。
やさしい祖父の衝撃の事実
盛岡で迎える最後の朝が来た。今日の大会は午後3時開始。午前10時に合宿組は出発する。その前に、母さんへ電話しないと。
思い思いに朝飯をとるみんなに気づかれることなく、ぼくは外へ出た。プッシュボタンを押すのも力が入らない。できればやめたいけれど、そうもいかなかった。
「もしもし」
「あ、母さん? レイジだけど」
「……レイちゃん!? どうしたの? 何かあった?」
「ううん、こっちは何もないけど東京の家に電話をかけたら出なかったんで、どうかしたのかなと思って」
「えっ? ああ…ごめんね、実は金曜からお父さんと仙台に来ているの。お父さんの実家に急用ができてね。会社もなんとか休みがとれて…レイちゃんは明日帰ってくるんでしょ? お母さんたちも今日中に東京へ戻るから心配しないでいいわよ」
言われて思い出した。仙台は、父方の田舎だった。だけど、どうしてプロレス会場に足を運んだのかまではわからない。かといって、自分から聞いたらなんで知っているのかってなる。
困ったぼくは、なかなか言葉を出せずにいた。すると、母さんの方からプロレスの話を始めた。
「昨日はね、プロレスを見てきたのよ。ほら、お父さんってスポーツが好きじゃない。それで夜に時間ができたんで、いってみたの」
「母さん、ああいう野蛮なのは嫌いじゃなかったの?」
「そうだったんだけど、涼平伯父さん(父さんの兄)がチケットを持っていて『リングサイド1列目だよ』っていうから。お父さんも『そんな前でプロレスを見られるのは久しぶりだから』って、すっかりその気になっちゃって」
「でも、野蛮で見られなかったでしょ」
「それがねえ、見てみたらけっこう楽しめたのよ。一番目の試合に出たマスクを被った人がね…あのね……レイちゃんとおんなじぐらいの背だったの」
「……」
「その人がね、すごく頑張っていたの。一生懸命にね。体が大きいからって、強いわけじゃないの。あれが強すぎたら、見ていて面白くなかったんだと思うのよ。大きくて、強そうなのに本当はそうじゃない。でも、だからこそ頑張っている姿がね…なんか見ていて……レイちゃんを見ているような気になって……お母さん、必死に応援しちゃったの」
言葉のところどころにはさまれる母さんの“……”から、もしかすると本当は気づいているのかもと思った。その上で、知らないフリをしてくれている。
「父さんはなんて言ってた?」
「お父さんも、その選手がレイちゃんに見えたって。それで『いくらレイジにスポーツをやれといっても、プロレスだけはやらせられないな』って笑っていたわ。あんなに厳しいことを、自分の子にやってほしいなんて思う親はいないわよ」
「ぼくにはプロレスなんて無理だよ」
そう返すと、母さんはまた「……」と少し黙った。
「……その頑張っていた人のご両親もね、きっとお母さんたちと同じことを思いながら、それでも自分の子がやりたくて、一生懸命になれることをやらせているんだと思うの。だからレイちゃんも、お父さんにどう言われても本当に自分がやり甲斐を感じられることをやればいいって、お母さんは思うの」
ぼくが一生懸命になれて、やり甲斐を感じられるのはプロレスだって今、ここで伝えたら母さんはどう思うだろう。とにかく、この場はバレていないということにしておこう。いや、バレていないことにしてくれている母さんに甘えよう。
「あれ? ところで母さん、さっき父さんがプロレスを見るのは久しぶりだって言ってたよね。父さん、プロレスを見にいったことがあったの?」
「あ…そういえばそうよね。あの…今まであなたには言ってなかったんだけど、楢葉のおじいちゃんって若い頃、プロレスラーだったのよ」
「!!!???」
東北プロレスであり得ないことには免疫ができていたつもりだったけれど、さすがに声さえあげられないほどの衝撃だった。あのやさしいじいちゃんが、プロレスラー!?