時は2000年代初期。インターネットが普及し始め、スマホではなく“ケータイ”だった頃、身長が180cmを超えながらスポーツが嫌いで、難しい地名を知ることが楽しみな漢字オタクの小学生がいました。あだ名は「アンドレ」。これは、そんな少年が東北の風景の中でプロレスを通じ経験し、人生を学んだひと夏の物語です。

【前回までのあらすじ】デビュー戦の井之上と15分フルタイム闘ったところへやってきたハヤトに、翌日のシリーズ最終戦で闘えと指名されたアンドレ。カード変更を拒絶するタスケだったが、最終的にはもともと両者の一騎打ちを考えており、ハヤトに言われて組んだわけではないと言い張りつつもGOサインを出した。

最初で最後の選手バスでの時間

もしかすると、向こうからかかってくるかもと思うと、ビクビクしてしまう。「レイちゃん、顔を隠しても私たちにはわかったわよ。なんてことをやってんの! 楢葉の田舎にいるって、ウソだったのね!」と、母さんの怒った声が聞こえてきそうだ。

これから盛岡に戻り、合宿所へ着くのは夜中だ。ぼくは朝になったらそれとなく連絡することにした。バレてさえいなければ「明日、東京に帰るから」とでも告げて、怪しまれずに済む。

それにしても気が重い。

せっかく好きになれたプロレス。でも好きなことに携わるのって、何倍もの苦しい思いや辛いことがついてくるんだな。きっとそれは、プロ野球選手だってJリーガーだって、そのほかのプロとされる仕事はみんなそうなんだろう。

浮かぬ顔を覆面で隠し、片づけを終えてバンに乗ろうとすると、すでに運転席へ座っていた宇佐川さんから思わぬことを言われた。

「アンドレ、今日は選手バスに乗って盛岡まで帰れ」

バン組にとって、選手バスに乗れるのはプロレスラーとして認められた証明のようなもののはず。ぼくなんてまだまだ恐れ多いぐらいなのに、どうして? 宇佐川さんは、車内の先輩たちに聞かれぬよう耳もとへと手をあて、小声でささやいた。

「タスケ社長のはからいだ。明日でおまえは東京に帰るから、一度だけ思い出として選手バスに乗せてやるってさ。社長に礼を言えよ」

嬉しいのはもちろんだけど、それ以上にタスケさんの奥深さに圧倒され、声があげられなかった。さっきまであんなバカバカしいことをやっていたのに、下っ端も下っ端のぼくにも情をかけてくれる器の大きさ…お言葉に甘えて、すでにエンジンがかけられ出発態勢となったバスへ向かった。