メジャーレコード会社「日本語ラップは出しません」

宇多丸いわく、RHYMESTER……というか日本のヒップホップの最初の土壇場といえば、93~94年にかけての時期だそう。意外に思われるかもしれない。なぜなら、この時期は『DA.YO.NE』と『今夜はブギーバック』というヒットが生まれた、世間的には日本のヒップホップ躍進のタイミングだからである。

「当時、ファイルレコードという日本で唯一、本格的なヒップホップ作品をリリースしてくれたインディ会社があって……のちに独立しますが、当時のファイルレコードはSONYの子会社でした。今みたいに誰でもCDデビューできる時代ではなく、そこを通さないとヒップホップは作品を出せない頃だったんですよね。

93年に親会社であるSONYが、“日本語ラップは売れないから出しません”と会議で決定したって話が漏れ伝わってきて。で、同じ頃にFM局の著名なDJから“日本語ラップ撲滅宣言”みたいなことも言われてしまって。つまり、CDを出したりプロデビューするという望みを断たれた挙げ句、ただでさえ弱者なのに、そんな強いところから屈辱的なことも言われてしまって。それは、RHYMESTERにとってもシーン全体にとっても、最大の土壇場でしたね。

でも、それによってシーン全体が激怒し、めちゃくちゃやる気になったので。少なくとも日本社会に対しては“全員、敵だ!”という気持ちになり、それまでバラバラにやってたヒップホップシーンが、怒りで固まるキッカケになったというか。

そこで、MUROくん率いるMICROPHONE PAGERという、ヒップホップが根付かないことへの怒りの塊のようなグループが中心になり、同調も反発も含めて日本のヒップホップシーンは超活性化しました。この出来事で、派閥ごとに分かれ、反発し合ってるだけだった俺たちがひとつのシーンになり、敵だけど仲間、競争も高まれば対話も高まるみたいな感じになった。“わかってない世間に俺たちのカッコよさをわからせる!”という、ひとつの熱い塊になったんです。

で、そうこうしているうちに、その熱気との裏表な感じでEAST END×YURIの『DA.YO.NE』と、スチャダラパーの『今夜はブギーバック』という世間的ヒットが生まれたんです。この2組は、どちらもSONYの傘下から出てきたもの。“日本語ラップはやらない”と言いつつ、アイドルと絡めば例外だったし、スチャダラだって小沢健二さんと絡んだり、ちょっとイレギュラーなものだったから、こういうことをすればSONYにとってもセールスバリューがある、というやり方を見せたわけですよ。

それで、実際にめちゃくちゃ売れたし。これが突破口になり、SONYも手のひらを返して“ラップどんどん出しましょう”ということになった。でも、日本語ラップ出しません宣言のときは、本当に俺らにとってどん底でした。下北沢でみんなで目に涙を溜めながら、怒りの飲み会というか(笑)。YOUちゃん(YOU THE ROCK★)とかと集まって、“おい、どうすんだよ!”みたいな」

ここから、日本のヒップホップシーンはポジティブなうねりを見せていく。『DA.YO.NE』のヒットを間近で見たハードコア寄りのクルーは「本物のラップを見せてやる」と闘志に火がつき、商業的な盛り上がりを見せていくことに。つまり、キングギドラやBUDDHA BRANDらが存在感を示していくようになったのだ。

▲今でこそこうやって話せるけど当時は絶望でしたよ

日本最初のMCバトルで闘ったのは宇多丸

さあ、そこでRHYMESTERである。彼らのブレークポイントは、果たしてどのタイミングになるのだろう?

「まずは、セカンドアルバム『Egotopia』なんでしょうけど、リリースしてすぐ手応えがあったという感じでもないので、やはり『耳ヲ貸スベキ』という曲になりますかね」

時系列を整理しよう。RHYMESTERは95年にセカンドアルバム『Egotopia』を発表し、96年7月には伝説のヒップホップイベント『さんピンCAMP』が開催された。そして、96年12月にサードシングル『耳ヲ貸スベキ』がリリースされる。

「さんピンCAMPのビデオが出てからは、それを見た地方の子たちが“RHYMESTERうまいじゃん!”と、イベントにいっぱい呼んでくれるようになったのが大きいですね。ちなみに『耳ヲ貸スベキ』は、さんピンCAMPで初披露したんです。そういう意味で、サウンド的にもリリック的にも、ここが大きなステップアップだったというか」

さんピンCAMPは、いわばハードコア寄りのヒップホップグループのイベントであった。この頃、宇多丸たちが対抗手段の武器として携えたのは即興ラップ、つまり、トップ・オブ・ザ・ヘッドである。

「全方位に攻撃しまくってたMICROPHONE PAGERのカッコよさに対し、“俺たちなりの武器を持つべき”とMELLOW YELLOWのキンちゃん(KIN)が始めたのが、完全即興、トップ・オブ・ザ・ヘッドによるフリースタイルです。

当時、日本では、少なくとも人前では誰もやってなかったんです。もう、完全に次世代兵器ですね。いわば、刀しか持ってないところに飛び道具を持っていき、闘うことを知らない部族を後ろからバンバン撃つ。だって、みんな即興のフリースタイルなんかやったことないんだから。即興でやって“ラッパーなのに返せないの?”みたいな感じで、俺らはやりまくってましたね。

もちろん、向こうにもいろんなラッパーがいるから、他の人も即興し始めるようになって。そのなかで、俺とMC JOEがバトルしてるのを見た石田さん(ECD)が面白いと思い、初の公開試合をやることになったんですよ。だから、日本最初のMCバトル参戦者は俺です。もっと言えば、最初の公式試合の大会は、99年の『B BOY PARK』で、俺はその司会だったんですけど、それだけじゃなくルール作りや審査員集めなどもしていた。じつは、そういうのにすごく関わってるんですよ。実家にルール作りしたときのノートがいっぱい残ってるし、証拠はいくらでもある。俺です(笑)!」

▲MCバトルのルール作りしたのは俺です! と笑いを交えて主張してくれた