ジャパニーズ・ヒップホップのシーン拡大に尽力したRHYMESTER・宇多丸の半生を掘り下げると、それはそのまま日本のヒップホップの外伝的な物語になる。宇多丸はどのような土壇場を乗り越え、ヒップホップを根付かせたのか。そして、どのようにしてRHYMESTERはヒップホップ界のレジェンドになったのか。資料としての価値も持つであろう、このインタビュー。ぜひ、ご一読いただきたい。
雌伏期間のライター活動でヒップホップを啓蒙
89年に川崎クラブチッタのイベント内で初のライブを行ったRHYMESTER。しかし、ラップ1本で生計を立てられるわけではなかった。それは、当時の日本のヒップホップシーンを知っていれば当然の話である。
「あの頃は音楽ライター業も同時にやってました。『ブラックミュージックレビュー』とか、シンコーミュージックの『クロスビート』とか、そこから発展しての『Front/Blast』などに、佐々木士郎(宇多丸の本名)名義で執筆していました。あと、ライナーノーツを書いてお金を稼いだり。当時の感覚からするとライナーノーツはかなり稼げたというか、“月に何枚も書きゃ、食えるっしょ”みたいな(笑)。
一方で、DJ JINは『bounce』で編集者として働いていたり、Mummy-Dは早稲田を卒業したあとに桑沢デザイン研究所に入ってデザインを学び直し、一時期はファイルレコードでデザイナーとして給料をもらっていました。とにかく、生計は別個に立てるのが当たり前だった時代です。音楽で、ましてやラップで生計を立てるなんて不可能というか、そもそも市場がないんだから」
彼の収入のメインはライター業。ただし、執筆活動を続けた目的は決してお金だけではなかった。他にも、重大な理由があったのだ。
「RHYMESTERとして活動しているうちに、みんなわかってくれない、こんなカッコいいことやってるのになぜだろう? といったフラストレーションが溜まっていったんです。でも、それは俺たちが“なぜいいか”の文脈が共有できてないからだ、という結論に達したんです。つまり、俺たちがいいと思うヒップホップが伝わってないから、その日本版をやりましたという俺たちが伝わらないのは当たり前じゃね? という感じ。
今でも思い出しますよ。Mummy-Dと車の中で、“他のラッパーも含めて、俺たちがやろうとしていることを100パーセント理解して、いいと思ってるヤツって日本に何人いると思う?”という話になり、結局のところ(お互いを指差して)俺たちだけ? みたいな。“ダメだ、こりゃ!”と笑いあってましたね。
それからヒップホップの啓蒙活動に力を入れていくんです。当時は、ヒップホップについて書くプロの音楽ライターにも、俺たちからすると納得できる書き手はいなかった。だから、そこも俺たちが自ら文化を広げて啓蒙し、その土壌ができたところに自分たちのヒップホップを置く。両方やんないとダメだって認識になったんです。ジブさん(Zeebra)も言ってますけど、俺たちの頃は“耕す、啓蒙する”と“活動”を両輪でやってたし、それをやらないと何もなかった。
もちろん、ヒップホップ文化拡大のやり方は人それぞれです。MUROくんみたいにDJをやるとかクラブイベントをやるとか、いろんな形があるんだけど、俺はやっぱり理屈の人だし、音楽評論がすごい好きだから。『ミュージック・マガジン』とかも読んでたけど、パブリック・エナミーとかデ・ラ・ソウルぐらい突出したものなら音楽評論家も刮目するけれど、俺たちはもっと中庸なヒップホップもすごい好きだし、そこに良さがあると思っていて。
俺、今もそうなんだけど、突出したグループより中庸なグループのほうが好きなんです。映画でも、傑作・名作みたいなのじゃなく、“このB級アクションが映画の醍醐味でしょ”と思うタチだし、そういうのに近い。職人芸っていうか、どうってことないのがカッコいいんだよ、みたいな。そういうものが受け入れられて、初めてヒップホップが受け入れられたってことになるから。
だから、パブリック・エナミーは好きだけど、“パブリック・エナミーだけがヒップホップじゃねえ!”という時代もあったりして。なので、その批評的土壌に苛立っていて、苛立ったときこそがやる気の出る瞬間。“あいつら、全員ぶっ殺す”みたいな(笑)。だから『ブラックミュージックレビュー』では、毎月のように他のライターが書いた記事への嫌味を書いていました(笑)」
フラストレーションが溜まる日々を、無為に過ごしていたわけじゃない。宇多丸の奮闘により、ヒップホップ批評の土壌は確実に生まれようとしていた。
「『クロスビート』では、ヒップホップに理解のある平沢郁子さんという編集者と組んだんです。ヒップホップ専門誌を作りましょうよ。The Source(米ヒップホップ専門誌)みたいなのを作りましょうよ。そうじゃないと、どうにもならないよって。季刊から始めたのが『FRONT』であり、のちの『blast』ですね。これらの雑誌は一時期までヒップホップの批評的土壌の中心にいて、果たした役割は大きかったと思う。そこまでやってなんぼというか」