2008年、4人の子どもを育てる会社員だった木山裕策が、1stシングル『home』でデビューを果たした。親目線の愛情が詰まったこの楽曲は、現役の会社員という木山の境遇も相まって、瞬く間に人気となり、大ヒット。同年の『第59回NHK紅白歌合戦​​』にも出場し、人気歌手の仲間入りを果たした。現在でも歌手活動はもちろん、人気バラエティ番組『千鳥の鬼レンチャン』(フジテレビ系)に出演し、『home』の大ヒットを知らない若い層にも認知されている。

そんな木山だが、歌手デビューするまでには、さまざまな壁が立ち塞がったという。ピンチになるたび彼を助けたのは「負けん気の強さ」と「家族」、そして「歌が好き」という思いだった――。

▲俺のクランチ 第28回(前編)-木山裕策-

木山の歌声を初めて聞いたのは紅白!?

1968年、大阪で生まれた木山裕策。幼い頃は勉強のほかに、週5〜6日の習いごとをしていた真面目な少年だったが、歌は物心がついたときから好きだったという。

「これは今でもそうなんですけど、部屋にこもって一人で歌っていました。歌っていると、生きてる実感が湧いたんです。ただ、親も僕の歌声をちゃんと聴いたのは、紅白歌合戦に出たとき……というほど、誰かに聴いてもらうなんて、恥ずかしくてできませんでしたね」

自分の才能に気づいたのは大学生の頃。バンドでボーカルを担当し、オーディエンスの反応を肌で感じたときだった。しかし、歌手になろうとは思わなかった。映画好きが高じてシナリオライターを目指していたからだ。

「神様からもらえる才能があるとするなら、もしかしたら僕は歌なのかも……と思うこともありましたけど、プロになったところで食べていける保証なんてないし、そこまでうまいとも思いませんでした。一人で歌っていれば幸せなんで、そのときの夢は“時間があるときに歌う物書きのおじさん”でした(笑)」

その後、両親の反対を押し切って24歳で上京。それまで真面目一本だったため、親から「遅い反抗期がきた」と言われたほど、木山にとっても大きな決断だった。昼間は契約社員として働きながら、夜はライターズスクールへ。脚本家・西条道彦のもとで、仲間たちと一緒に夢を追いかけた。27歳のとき、同じスクールで出会った女性と結婚。28歳までシナリオライターを目指していたが、子どもが生まれたこともあって、スイッチを切り替えた。

「20代は夢に向かってワクワクしながら、モチベーション高く生きていたんですけど、30代になってからは、 夢にしがみつくんじゃなくて、子どもたちのために、確実にお金を稼ぐ……。そのほうが生き甲斐を感じられたし、幸せだったんです」

▲一人で歌っていれば幸せだった

35年ローンの家を買った直後で見つかった病気

その後、契約社員から社員へ昇格し、最終的には管理職まで出世。木山は働き盛りの36歳になっていた。子ども3人いて、35年ローンで家も買った……幸せ絶頂のなかで土壇場がやってくる。人間ドックを受けたときに甲状腺がんが見つかったのだ。

「ちょっと受け入れられないというか、途方にくれていました」

そんな絶望の海で溺れる彼を救ってくれたのは、共に人生を歩んでいた妻だった。

「すごく落ち込んでいたんですけど、前向きなタイプの妻から“最悪なことは、最悪なことが起こったときに考えればいいから、今は深刻に思わなくていいんじゃないの?”と言われました。それで、なんとか平静を保てましたね」

手術はすぐに決まった。手術前夜に突然、医師から「声が出なくなる可能性がある」と伝えられた。木山にとって歌えなくなるのは死に近いこと。歌が、生きがいが、奪われてしまう――。

「そのとき、誰に聴かせるわけでもないんだけど“なんで、もっと歌を頑張ってこなかったんだろう”と思ったんですよ。悲しい気持ちじゃなくて、悔しくて、悔しくて……、その日は眠れませんでした。シナリオライターになれなくて、子どものために働く人生も楽しかったけど、これじゃダメだなって。気がついたら死んじゃうかもしれないから、もし、手術が成功したら、何かやらなきゃと思いました」

手術当日の朝に、こんな奇跡も起きた。

「朝、テレビをつけたら『江戸川乱歩賞』をとって取材を受けてる人がいて……それが、同じスクールに通っていた薬丸岳くんでした(小説家、代表作『友罪』『Aではない君と​​』ほか多数)。僕は諦めてしまったけど、彼は十何年も頑張って書き続けた。今日、声を失うかもしれないときにそれを知って……。“やっくん、頑張って賞をとったんだ、人生ってこんなことが起こるんだな”と思いましたね」

結果的に手術は成功。ただし、のどを8センチ切ったため、唾を飲み込むだけでも激痛で、寝返りも打てない、もちろん歌うこともできない日々が続く。結局、あんなに大好きだった「歌」を奪われ、生きる価値も見いだせなくなっていた。

▲手術は成功したが、その後遺症は相当だったという