5世紀は古墳建設が全盛の時代。しかし、古墳の実態はまだまだ解明できていないと言ってよいでしょう。世界最大級の「仁徳天皇陵(大仙陵古墳)」(大阪府堺市)は、世界遺産にもなり注目されている巨大遺跡ですが、天皇のお墓であるということで、内部発掘調査がほとんど進んでいないのが実情です。古墳は誰が作ったのか? 歴史家の田中英道氏(東北大学名誉教授)と、大学受験予備校で人気世界史講師の茂木誠氏が「巨大古墳」の実態に迫ります。

※本記事は、田中英道×茂木誠:著『日本とユダヤの古代史&世界史 -縄文・神話から続く日本建国の真実-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

巨大古墳は秦氏が行った公共事業だった!?

茂木:5世紀は、前方後円墳が超巨大化した時代です。特に大阪湾に面した百舌鳥(もず)、古市(ふるいち)古墳群※1が突出しています。

宮内庁が「応神天皇陵」と比定している誉田(こんだ)山古墳は長さが約425メートル。「仁徳天皇陵」と比定している大仙陵(だいせんりょう)古墳は長さが約486メートルで日本最大、面積では世界最大の墓です。いずれも陵墓、すなわち天皇の墓として祭祀の対象であるため、宮内庁は発掘を許可していません。

※1.古市古墳群の応神天皇陵=誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳は大阪府羽曳野市誉田にあり、百舌鳥古墳群の仁徳天皇陵=大仙陵古墳は大阪府堺市堺区大仙町にある。ユネスコは2019年に「百舌鳥・古市古墳群」として世界文化遺産に登録した。

▲『日本とユダヤの古代史&世界史』(小社刊)より

田中:仁徳天皇陵にいたっては、その規模においては世界一巨大なお墓です。しかしね、それまでの日本人が自らそんなものをつくると思いますか? 縄文時代の日本人は、長いあいだ竪穴式住居で暮らしていました。元来、木の文化である日本に石の文化を持ち込んだのは、渡来人たち、つまり秦氏※2です。

彼らが土木と建築の技術を日本に持ってきて、自分たちの技術を誇った証でしょう。古墳時代というのは完全に技術力と資源の時代です。巨大な石をどうやって運び、加工したのか? 秦氏は、土木工事を得意とする一族として、堤防をつくったり、沼地を水田に変えたり、日本の国づくりに貢献してきました。それで当時の人々は非常に助けられました。

※2.秦氏(はたし、はたうじ):渡来系氏族。応神天皇の時代に渡来した弓月君(ゆづきのきみ)が祖とされる(『日本書紀』)。「秦の始皇帝の末裔」という意味の記載もあり(『新撰姓氏録』)。蚕(かいこ)や絹による織物、土木、砂鉄や銅等の採鉱及び精錬、薬草、牧畜などを伝来。京都太秦(うずまさ)を本拠地とし、八幡神社、稲荷神社を全国に広めた。ユダヤ系氏族であると田中英道氏は論じる。

茂木:古墳の建設はいわゆる積極財政、国家の公共事業だったという説があります。当時、大阪平野は浅い海で人は住んでいませんでした。そこに山を崩して土砂を運び、埋め立てて水捌けも良くして水路をつくる、ということを行いました。盛土で人工の小山、モニュメントを築き、水田開発の事業の記念碑としたのが古墳の起源で、そこに指導者を葬るようになった、という説です。

田中:後の時代、聖徳太子の側近として有名な人物に秦河勝(はたかわかつ)という人がいました。名前が「河に勝つ」ということからも、土木工事に長けていることがわかりますね。土木工事が得意であり、農業の発展に貢献し、人々の生活を豊かにする人たちだから、非常に尊敬され政治にも関わるようになっていくのです。

また、秦氏の下で古墳の造築を担当し、埴輪を発明した氏族に「土師(はじ)氏」がいます。土師氏の開祖は野見宿禰(のみのすくね)※3ですから、もっと古い時代に日本に来たユダヤ系の子孫と考えられます。

※3.野見宿禰:土師氏の開祖。相撲の元祖。第十一代垂仁天皇が殉葬の習慣を嘆いた際に、人間に代えて埴輪を埋めることを進言したという。これ以後、土師氏の氏族名を与えられ、代々天皇の葬儀を司った。『新撰姓氏録』では、アマテラスとスサノオの誓約で生まれた天之菩卑能命(アメノホヒ)の14世の子孫とされる

ピラミッドの建設には給料が支払われていた

茂木:古墳の建設においては、民が強制労働をさせられたという話もよくありますが、それはマルクス主義の歴史観、階級闘争史観からきている完全な俗説です。

エジプトのピラミッドは強制労働で建設されたと考えられてきましたが、近年の考古学調査では、ピラミッド労働者の住居跡から、ちゃんと給料が出ていた記録が出てきました。給料はワインやパンといった現物支給で、出欠簿もあって「◯◯さん、今日は二日酔いで休み」と書かれた石板も出てきました。二日酔いで休む奴隷がどこにいるでしょうか(笑)。

田中:クフ王を恨むどころか、仕事をもらえて感謝していたわけですね。主に農閑期に働いていたのでしょう。

▲ギザのピラミッド(エジプト) 写真:AlexAnton / PIXTA

茂木:ナイル河流域では、頻繁に洪水が起こりました。洪水がくると畑仕事はできなくなります。要するに失業対策ですね。日本の場合も同じです。

田中:決して強制労働でやらされていたのではなく、祖先信仰という自発的なものがあったと思いますね。祖先信仰は、神道の思想の基本です。いずれにせよ信仰に対する情熱こそが、古墳をつくらせたと思います。そして、その情熱に火をつけたのが秦氏です。

それに彼らは毎日、コメであったり衣服であったり塩であったり、報酬をちゃんと提供していました。日本は7世紀後半から律令制度に入ったとされていますが、それ以前に秦氏は各地に派遣され、土木事業を通じてそれぞれの地域の統治者たちと結びついていたのです。のちの荘園なども彼らが開発したものでしょう。

お墓をつくるという行動には、やはり、信仰心の表れとしての意味が強く存在したと思います。それは我々の祖先、そして天皇に対する信仰と共にある。「祖先や死者を祀ることによって共同体を大事にする」ということは、縄文から続く日本人の伝統心です。また、古墳づくりがあることで、その地域の経済と人々の生活が潤ったといえるでしょう。

茂木:古墳をつくることによって、日本の国土の形はずいぶん変わっていったでしょうね。

田中:農業あるいは、土木建築産業の基礎ができました。秦氏が持ち込んだ能力や技術力の背景には、大陸で培った経験というものがあります。また、武内宿禰に代表されるような、側近として天皇を支える存在が常にいました。近現代の西洋でも同じです。国王に代わって政治を執り行う、いわゆる摂政といった存在は、たいてい隠れユダヤ人であることが多い。

茂木:常に少数派だったユダヤ人が陰で権力を支えてきた、というところが世界史的にも面白いと思います。古代日本でも同じような存在があったのかもしれませんね。

田中:天皇はあくまでも血筋によって天皇になられているわけで、権力や財産を持っているということとは結びついていないわけです。ユダヤ人などの渡来人は決して天皇にはなれない、あくまで補佐役として天皇を支えてきた。武内宿禰や秦河勝の姿が、まさにそれなのです。

▲大阪・仁徳天皇陵 写真:shiii / PIXTA

茂木:古墳がつくられていた時代は「大建築の時代である」ということができますね。建設大手の大林組が1985年に仁徳天皇陵築造の試算をしたことがあります。それによると工期は15年8か月、作業員数は一日あたり2000人、延べ680万7000人、総工費は試算当時の貨幣価値で約800億円というものでした。