「縄文時代の東日本は、世界有数の人口密度だった」といわれたら驚きますか? 古代、人々は太陽を追い求めて東へ向かいました。東の端にあるものは……そう、日本です。そして、日本のなかで最も太陽に近い場所は、千葉や茨城なのです。その地を「高天原」と人々は呼んでいました。そう論じるのは、歴史家の田中英道氏(東北大学名誉教授)と、世界史講師の茂木誠氏(駿台予備校/N予備校)のお二人です。

※本記事は、田中英道×茂木誠:著『日本とユダヤの古代史&世界史 -縄文・神話から続く日本建国の真実-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

縄文時代にあったとされる「日高見国」とは?

茂木:学校で教わる歴史の最初の部分では、◯◯遺跡とか、◯◯土器とか、考古学の発見について教わりますが、神話については完全に黙殺します。神話は古代人の空想、妄想であり、「非科学的」だから教える価値がない、という扱いです。ところが、田中先生がお話しする神話は全部がリアル。神さまもすべて実在し、実際にあった出来事であるということが大前提ですよね。

田中:『古事記』や『日本書紀』には神さまの名前がたくさん出てきますが、ほぼ実在した人物であると私は考えています。もちろん、伝承されたものが文章になったわけですから、詩的な表現や誇張した言い回しなどもあるでしょうが、大元の話は真実の出来事であると思います。

誰かが創作したフィクションではないのです。例えば「高天原(たかまがはら / たかまのはら)」というのは、「天界」だと思われていますが、私は実際に存在した場所であると考えています。

茂木:そのあたりのお話をじっくり進めていきたいと思いますが、まずは田中史学の真髄であります「日高見国(ひだかみこく / ひだかみのくに)」のお話に入っていきたいですね。

「日高見国」とは、縄文時代から東日本を中心に存在していた古代国家……ということですが、初めて聞いたという方もおられると思いますので、「日高見国」の基礎知識をまずはお話できればと思います。その名前がはっきり出てくるのは『日本書紀』や『古事記』でしょうか?

田中:そうですね。『日本書紀』では、第十二代景行天皇の時代に二カ所登場します。一つは倭建命(やまとたけるのみこと / 日本武尊 / 以下、ヤマトタケル)が東国へ蝦夷(えみし)征伐に行ったとき、もう一つには天皇の側近だった武内宿禰(たけうちのすくね)が、諸国を視察した際に「東方にある広大で肥沃な土地(くに)」として日高見国が出てきます。

また、同時期に書かれた『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』には信太郡(しだぐん)(現在の茨城県土浦市周辺)が日高見国だとありますし、『日本書紀』の注釈書である『釈日本紀』(鎌倉時代)にも記載があります。

それから、『延喜式(えんぎしき)』(平安時代中期に編纂された律令の施行細則をまとめた法典)にも、古来より伝わる日本の祝詞『大祓詞(おおはらえことば)』には、「大倭日高見(おおやまとひだかみ)の国を安国(やすくに)と定め奉(まつ)りて」という一節があります。これは、「大倭=大和」と「日高見国」の二つの国が合体して、日本という国が成り立っているのだ、という当時の人々の認識を示しているといえるでしょう。

茂木:鹿島神宮がある茨城県あたりが日高見国だったとお考えでしょうか?

田中:いえ、今でいう東日本全体が日高見国だったと考えています。日高、日田、飛騨、北上、日上(ひのかみ)、飯高(いいだか)など、その名称は今でも形を変えて残っています。日高見神社(宮城県石巻市)、日高神社(岩手県奥州市)もあります。

日本で一番古いとされる祝詞にも出てくるのですから、神職の方々であればみんな知っているはずなのですけれど、「日高見国とは何か?」ということは、ほとんどわかっていません。

これは「高天原はどこか?」ということとも重なりますが、私は茨城の鹿島神宮、千葉の香取神宮、または筑波山の地域に高天原があったと考えています。鹿島神宮の近くには「高天原」という地名が今でも残っていることは、ほとんど知られていません。

▲茨城県鹿嶋市高天原1丁目1番地 撮影:高谷賢治

「日高見」とは「太陽が一番よく見える場所」という意味だと思います。または、「日が高いところから見ている国」つまり、「お天道さまが見ている国」という意味にもとれます。ユーラシア大陸の最東端が今でいう銚子あたりで、東日本は太陽が最も先に登ってくる聖なる場所だったのです。