時は3世紀後半、約2万人の渡来人「秦氏」が日本にやってきたことをご存知でしょうか? これは『日本書紀』にも書かれてある、ある大移民の物語です。秦氏は、日本にさまざまな技術(テクノロジー)や文化をもたらしたといいます。蚕や絹による織物(=はた織り)、土木や灌漑事業、砂鉄や銅等の採鉱及び精錬、薬草、馬の育成をはじめとした牧畜などを伝来しました。そして、神社の創建にも大きく関わっているというのです。

歴史家の田中英道氏(東北大学名誉教授)と、大学受験予備校で人気世界史講師の茂木誠氏が、秦氏の実態に迫ります。

※本記事は、田中英道×茂木誠:著『日本とユダヤの古代史&世界史 -縄文・神話から続く日本建国の真実-』(ワニブックス:刊)より一部を抜粋編集したものです。

応神天皇の時代に弓月国からやって来た秦氏

茂木:古墳時代に活躍した、秦氏(はたし / はたうじ)という渡来人氏族のことをお話ししましょう。「倭の五王」と呼ばれる大王(おおきみ)たちが、大阪湾沿いに巨大な前方後円墳を建造した時代です。その頃、秦氏が新羅(しらぎ)を経由して日本列島にやって来たとはっきり記録が残っています。それは『日本書紀』の応神天皇14年の頃(西暦換算すると3世紀後半頃)です。

この年、弓月君が百済からやってきた。奏上して、「私は私の国の、百二十県の人民を率いてやってきました。しかし新羅人が邪魔をしているので、みな加羅国に留っています」といった。(『日本書紀 全現代語訳』宇治谷孟 / 講談社)

「県(あがた)」というのは当時の行政単位で、120県の人民というと、少なくとも1万人から2万人の規模でかなりの大所帯です。その秦氏のリーダーが「弓月君(ゆづきのきみ)」と称し、自分たちは秦王朝の末裔だ、と名乗ったわけですね。

田中:平安初期の貴族の名簿『新撰姓氏録』※1にも、「秦の始皇帝の三世の孫」とはっきり書いてあります。だから「秦氏」と呼ばれるのです。秦(しん)王朝がユダヤ系だとすれば、秦(はた)氏もユダヤ系となるだろうと私は確信しています。

「弓月国(ゆみつきこく / ゆづきのくに)」から、大将格の弓月君という人物がおよそ2万人の大集団を率いて日本にやって来た。これがユダヤの日本渡来のうちの、ひとつの波と私は考えます。

※1.新撰姓氏録:平安時代初期の815年、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑。京及び畿内に住む1182氏を、その出自により「皇別」(皇族系)「神別」(高天原系)「諸蕃」(渡来系)に分類、それぞれの氏族が伝える起源説話を併記した。

▲『日本とユダヤの古代史&世界史』(小社刊)より

茂木:「弓月国」はシルクロード沿いの都市国家で、イリ盆地にあった国ですね。現在では残念ながら中国共産党政権が占領中の「新疆(しんきょう)ウイグル自治区」に編入されており、自由に入れません。西へ行くと旧ソ連圏のカザフスタン(都市:アルマトゥイ)、その南がキルギス(都市:ビシュケク)です。

キルギス人はトルコ系遊牧民ですが、顔立ちは日本人そっくりです。「昔、キルギス人と日本人は兄弟だった。肉が好きな者はキルギス人となり、魚が好きな者は東に渡って日本人になった」という伝説まであるそうです。遺伝子をちゃんと調べれば、何かわかるでしょう。

田中:『日本書紀』によれば、秦氏が最初にやって来たのは応神天皇の父親である第十四代仲哀天皇のときで、「巧満王(こうまんおう)という渡来人がやって来た」とあります。弓月国からの移民の先駆けといってよいでしょう。

茂木:「巧満王の子は融通王(ゆうづうおう)」とも書かれていますが、この「融通王」は「弓月君」と同音ですね。また「仲哀天皇から移民受け入れのOKが出たので日本に行こうと思ったら、今度は新羅が邪魔をして日本に渡ることができないということになった。そこで次代の応神天皇が新羅に出兵し、彼らを迎えいれた」と記録にあります。

田中:応神天皇は新羅に葛城氏の軍勢を送りこみました。派遣された葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)という人物は、第12代景行天皇から第16代仁徳天皇まで、計5代の天皇に仕え続けたという武内宿禰(たけうちのすくね)の子です。

この武内宿禰も、子孫の葛城氏も共に渡来系であり、もともと日本にいたユダヤ系の一族であると私は推測しています。紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏などの名だたる中央有力豪族も、武内宿禰を祖先としています。

茂木:武内宿禰は、約330年間、5代の天皇に仕えたという伝説上の忠臣で、戦前にはお札の顔にもなっていました。ところが敗戦後の教育では、そんなに長生きしたはずがないので架空の人物だとされ、教科書から消されてしまいました。けれども歌舞伎役者の「市川團十郎」の屋号が世代を超えて受け継がれるように、「武内宿禰」も世襲の役職名と考えれば、実在性が出てきます。

また、応神天皇のお母さまは神功(じんぐう)皇后です。応神天皇を身ごもったまま新羅を攻めたという「三韓征伐(さんかんせいばつ)」の伝承で知られ、やはりお札の顔になっていましたが、戦後教育では消されてしまいました。

▲神功皇后も主祭神とする宇佐神宮(大分県) 写真:papa88 / PIXTA

田中:朝鮮半島に渡った葛城襲津彦は、弓月国の民を当面は加羅(伽耶)国が引き受けるよう尽力しました。ところが、3年経っても葛城襲津彦は弓月国の民を連れて帰還することができなかった。そこで、応神天皇はさらに強力な軍勢を加羅国に派遣し、たちまち新羅を降参させました。こうして無事に弓月国の民を日本に招くことができたわけです。