歴史ドラマや映画でスポットがあたるのは、有名な人物や大きな事件など。それでは、戦国時代の武士たちの日常はどうだったのだろうか? 大河ドラマ『どうする家康』の時代考証を務める小和田哲夫氏と歴史コンテンツプロデューサーの辻明人氏に、織田信長の馬廻衆として仕えた石黒彦二郎、織田信忠の小姓である毛利岩丸を主役として、当時の正月をシミュレーションしてもらいました。

※本記事は、小和田哲男/辻明人:監修『もしも戦国時代に生きていたら -武将から市井の人々の暮らしまでリアルシミュレーション-』(ワニブックスPLUS新書:刊)より一部を抜粋編集したものです。

縁起物を食べて家族と過ごす正月

石黒彦二郎が屋敷に戻ると、玄関前に門松が置かれていた。人一倍縁起物を尊ぶ母のフクが、小者に庭の竹を切らせてこしらえたのだろう。

土間に入ると、彦二郎は真っ先に「腹が減った」と声をかけた。

城では安土城に出仕した大小名たちの接待に加え、献上物や祝い金の受け取りに大忙しで食事どころではなかったのだ。

盆を運んできたフクは「石垣が崩れて死人が出たらしいな。縁起悪いわ」と眉を寄せながら、板の間に座る彦二郎の前に酒と雑煮が入った椀を置いて「正月だもんでね、験を担いで餅菜〔もちな:小松菜に似た尾張地方の伝統野菜。尾張では「名(菜)を挙げる」という意味の縁起担ぎとして雑煮に入れる風習がある〕入れといたわ」と言った。

▲名古屋風のお雑煮 写真:robbie / PIXTA

フクは安土で一人暮らす息子と正月を祝うため、わざわざ在所の尾張から餅菜を持ってきてくれたのだ。彦二郎は酒とともに故郷の正月の味を堪能した。

酒と雑煮を腹に流し込んだ彦二郎が一息ついていると、フクは「キク殿も、もう十五だもんで」と、父の代から昵懇(じっこん)にしている毛利家の娘のことを話し始めた。

どうやら安土まで出向いてきた本当の目的は、息子と正月を祝うことより、許嫁〔いいなづけ:当時の武家は、武家家法などにより男女間の自由意思による結婚に制約が加えられることが多く、特に父親の意見に重きが置かれた。大小名やその重臣に至っては、政略結婚がほとんどだった〕との祝言(しゅうげん)のことだったらしい。

彦二郎もキクのことは嫌いではないが、いかんせんまだ子どもなので妹のように感じてしまい、嫁に迎えるのをためらっているのだ。

彦二郎は、うかがうようなフクの視線を避けるようにして背を向けると、「ちょこっと岩丸(いわまる)に会ってくる」と言って立ち上がった。

仕事場への挨拶は今より少し早かった?

正月二日の朝、毛利岩丸は父の良勝とともに安土を発った。

良勝は織田信長の直臣だが、若い衆の多い岐阜の家中のお目付役として、平時は家族のいる岐阜城下で暮らすことを許されていた。この日、二人は垂井(たるい)で一宿し、岐阜の屋敷に着いたのは翌日の昼下がりだった。

四日の朝、岩丸が父とともに岐阜城に出仕すると、御殿の広間には織田信忠の家臣や近習たちが集まっていた。床には膳が並び、岩丸が座ると間もなく上段の間(主君が家臣などに対面する場所)に信忠が現れた。

「元日から安土に出仕した者も、城の番をした者もご苦労だった」との労いの言葉ののち、まずは三献の作法〔さんこんのさほう:儀礼的な酒宴の作法で、肴(さかな)の膳を出すごとに酒を勧めて乾杯することを三度繰り返す。三献の義、式三献とも〕が行われ、その後は酒宴となった。

酒が進むにつれ無礼講となり、岩丸は小姓仲間の加藤辰千代や金森義入らと能楽(のうがく)のまねごとをしてやんやの喝采を浴びたが、信忠だけは苦笑いを浮かべていた〔信忠は、自分で演じて悦に入るほど能楽に熱中していたため前年の天正九年(1581年)に信長の怒りを買い、能楽の道具を取り上げられている〕

▲どこまでの無礼講が許されたのだろうか…? イメージ:sky8492 / PIXTA

宴席の隅では、良勝が情報通の大脇伝内(おおわきでんない)と、佐久間信盛〔さくまのぶもり:織田家の筆頭家老として権勢を誇ったが、本願寺との戦いを長引かせたことで信長の不興を買い、天正八年(1580年)に子の信栄とともに高野山へ追放された〕が死んだらしいという噂や、隣国の武田領の情勢などについて小声で話し合っていた。

その夜、酔って父とともに屋敷に帰った岩丸は、妹のキクに「上様(うえさま)からお前にだ」と軽口を叩きながら、館で土産にともらった紙包みを懐から取り出して渡した。

包みをほどいたキクは「なんや、やらしい」〔名古屋弁では「気恥ずかしい」という意味も。もともと日本には女性の純潔を尊ぶ風習はなかったが、この頃からキリスト教徒の増加により純潔を尊ぶ女性が増えたという〕と言って、土産を置いて屋敷の奥へ逃げてしまった。

解かれた紙の上には干し鮑〔あわび:鮑は古代から尊ばれており、朝廷にも献上さていた。戦国時代も同様で、出陣や凱旋時の式三献では打鮑(熨斗/のし)鮑、勝栗(かちぐり)、昆布が供された。鮑はその形状から女性器の比喩に用いられる場合もある〕がのっていた。