織田信長が建てた豪華絢爛な安土城。大名だけでなく一般民衆も入場料を払うことで見物することができたと伝わっています。その金額は先日発表されたディズニーリゾートのチケット最高価格くらいだったとか。その様子は今回の大河ドラマでは描かれませんでしたが、『どうする家康』の時代考証を務める小和田哲夫氏と歴史コンテンツプロデューサーの辻明人氏に、当時の様子をシミュレーションしてもらいました。

※本記事は、小和田哲男/辻明人:監修『もしも戦国時代に生きていたら -武将から市井の人々の暮らしまでリアルシミュレーション-』(ワニブックスPLUS新書:刊)より一部を抜粋編集したものです。

1582年1月の安土城はどんな感じだったのか?

辰の刻(朝8時前後)ころ、織田信長が「開門!」と叫ぶと、足軽たちが重々しく黒金門を開けた。そびえ立つ石垣に囲まれた門外の石段は、あふれんばかりの人だかりだ。

小姓〔こしょう:平時は主君に近侍して身辺の雑用をつとめ、戦時も親衛隊として主君を護衛した〕や足軽たちが押し寄せる人々を押しとどめていると、信長が自ら見物人たちから百文(現在の1万~1万5千円程度)の祝い金を受け取り、背後に控える近習たちに次々と後ろ手で投げ渡してきた。

門の下には、縄を通した一文銭の束がみるみる積み上がってゆく。

やがて信長は飽きたのか、「あとは任せた」と小姓たちを引き連れてさっさと天主へと消えていった。残された佐久間兵大夫たち馬廻衆〔うままわりしゅう:主君の親衛隊的な役割を担う騎馬武者〕は、見物人たちから次々と渡される祝い金を受け取るのにてんてこ舞いだ。

すると、門外から腹に響くような地鳴りと人々の悲鳴が聞こえてきた。ただごとではないと感じた兵大夫は、あわてて祝い金の受け取りを石黒彦二郎らほかの馬廻衆に託し、轟音のしたほうへと駆けていった。

兵大夫が逃げ惑う人々を掻き分けてようやく現場にたどり着くと、百々橋口道〔どどばしぐちみち:四本あった安土城への登城道のうちの一本〕から摠見寺(そうけんじ)へ上る途中の石垣が崩れている。

▲現在も残る安土城の石垣 写真:くろうさぎ / PIXTA

騒ぎを聞きつけた信長は、このままでは混乱が収まらぬと見て、見物人を家臣と他国衆〔たこくしゅう:大名の本拠がある本国以外に領地を認められている家臣とその配下〕、安土城下の人々に分け、それぞれ異なる門から入城させるよう命じた。

すでに城内は織田家の一門衆〔いちもんしゅう:当主の親族にあたる人々〕や家臣、諸国の大小名らでごったがえしていた。

南虎口門の外には、城下の人々が集まって今か今かと開門を待っており、信長が大小名らを招き入れた北東の城門近くの台所(炊事場)前には、祝い金や献上物が無造作に積み上げられている。

役目を終えた兵大夫が他の馬廻衆とともに天主下の白洲〔しらす:砂利を敷き詰めた庭〕で控えていると、信長に伴われて明智光秀と松井友閑が本丸御殿から出てきた。

神妙な面持ちをした光秀とは対照的に、友閑は軽く笑みを浮かべて信長と何やら話をしており、三人の背後には大和衆〔やまとしゅう:織田家に従う大和国(現・奈良県)の大小名や国衆〕や堺の茶人らが続いた。

信長は兵大夫ら馬廻衆に気づくと、「お前たちも御殿を見るがよい」と声をかけた。そこで馬廻衆も、本丸御殿の御幸の間や江雲寺御殿〔こううんじごてん:安土城の三の丸にあったとされる御殿〕を見物することにした。

御殿はいずれも噂に違わぬ絢爛ぶりだ。

各間や廊下の至るところに金の装飾が施され、壁や襖には狩野永徳による各地の風景の絵で飾られている。兵大夫はただただ「ありがたいものを見た」と感心するしかなかった。

▲安土城跡 摠見寺仁王門 写真:m.Taira / PIXTA