諸葛亮ができるはずもない命令を遺した

たとえ曹丕を破り、孫権を降して中国を統一しても、自分が即位すれば、「聖漢」による中国統一ではなくなります。しかも、劉禅は諸葛亮を全面的に信頼して全権を委ね、「相父(しょうほ)」〔丞相を務めるおとうさん〕と呼んで、諸葛亮を慕っています。

劉禅を殺して帝位に即くことなど、諸葛亮ができるはずもない命令でした。

こうした実行できない君主の命令のことを「乱命」と言います。

乱命は、それを出した君主が間違っているので、従う必要はありません。諸葛亮は、粛々と劉禅を即位させ、死ぬまで劉禅を支えて、曹魏と戦っていきます。

ところが陳寿は、口を極めて劉備の遺言を褒め、劉禅を託した信頼関係を称えます。

こののち、これは「遺孤(いこ)〔残された子〕を託す」と言われ、君主と臣下の絶大な信頼の証とされていくのですが、わたしには、劉備が諸葛亮を信頼していないように思えたのです。

大学院に入って読書の範囲が広がると、明末の王夫之(おうふうし)〈王船山〉が、わたしと同じ疑問を抱いていることを知りました。

王夫之は、「劉備は関羽に対してであれば、このような遺詔を残すことはなかった。諸葛亮は関羽のようには、劉備に信頼されていないことがわかる」と言っています。

わたしも、劉備が諸葛亮と対立していたとか、信頼関係がなかったと考えていたわけではありません。

そこで、両者のぶつかり合いを「せめぎあい」という言葉で表現したのですが、王夫之のように関羽とくらべるとわかりやすいなと気づき、中国学の奥深さに、やがて感心することになったのです。