羅漢中(らかんちゅう)の歴史小説『三国志演義』をもとに、多くの“物語りとしての「三国志」”が生まれた。それらの系譜の中で、日本でもっとも読まれている「三国志」と言われているのが、吉川英治の『三国志』を種本とした、横山光輝の『三国志』だ。120以上の論文を書き上げた三国志研究の第一人者、渡邉義浩氏が語った“横山三国志”ならではの特徴とは?
※本記事は、渡邉義浩:著『三国志』(ワニブックス刊)より、一部を抜粋編集したものです。
劉備の母が登場する「三国志」
横山『三国志』は、洛陽船の到着を待ちつつ黄河を見る劉備の描写から始まります。
後漢(二五~二二〇年)の都であった洛陽は、日本で京都のことを「洛」と呼ぶように、「古典中国」の王城の地でした。
劉備は、当時貴重品であったお茶を母に買い求めるために、黄河を眺めながら洛陽船を待っていたのです。
陳寿が著した史書の『三国志』には、お茶を飲む記録はありません。しかし、三国を統一した西晉に仕える張載(ちょうさい)が、お茶を称える詩を書いていますので、後漢末に洛陽の高官がお茶を嗜んでいた可能性はあります。
「三国志」に劉備の母が登場するのは、吉川英治の『三国志』とそれを承けた横山『三国志』のみで、劉備の母の物語は吉川英治の創作です。
『三国志演義』を翻訳した立間祥介先生は、「おまえの三国志は偽物だ。劉備の母が出てこないじゃないか」と批判された、とおっしゃっていました。それほど、吉川『三国志』と横山『三国志』の影響力は大きいのです。
劉備は、一年間まじめに働いたお金で買ったお茶を、黄巾に奪われます。しかし、張飛が奪還してくれたので、先祖伝来の剣をお礼とします。ところが、母は喜ぶどころかお茶を投げ捨て、家宝の剣を手放したことを叱責し、劉備が前漢の中山靖王劉勝の末裔であることを告げるのです。
孝養を尽くす息子に感謝しながらも、心を鬼にして劉備を叱る母の姿には、「孟母断機(もうぼだんき)」の話が重なります。劉向の『列女伝』に描かれた「孟母断機」とは、孟子の母が、学業半ばで帰ってきた孟子に、織っていた機を断ち切り、学問を途中で放棄したことを戒める故事です。
本心を隠して子へ訓戒する母。横山『三国志』は、東アジアの古き良き母親像を描くことで、その訓戒のもとに育った劉備の人柄を表現しているのです。
横山光輝は「武将たちの戦争絵巻」を目指した
横山光輝は、学校の図書館で吉川英治の『三国志』を読んだことが「三国志」への関心のルーツであったと述べています。
「武将たちの戦争絵巻」を目指したという横山『三国志』は、吉川『三国志』と同じく、諸葛亮の死後、急速に物語を終わらせます。
とはいえ横山『三国志』は、吉川『三国志』をそのまま踏襲しているわけではありません。
『三国志演義』あるいは『三国志』や『後漢書』において、後漢を蝕むものとして描かれている宦官(宮中に仕える去勢された男性)は登場しません。これは、主役の一人である曹操の出自とも関わり、横山『三国志』の独自性の一端といえます。
横山『三国志』は、曹操の祖父に限らず、すべての宦官を作中に描いていないことが大きな特徴となっています。単行本二十巻までが児童向けの雑誌に発表されたこともあり、品行方正な表現を心がけたのではないかと考えられます。
あるいは、横山『三国志』が目指した「武将たちの戦争絵巻」の主人公である曹操の出自が宦官であることを避けようとしたとも考えられます。
そうした工夫は、貂蝉と呂布の記述にもみてとれます。