明時代には孔子と並ぶ最高の神となった
明の中期以降、山西商人は、国境地帯の軍事物資の納入に加え、塩法の改革にともなって中国経済の中心地である揚州(ようしゅう)など長江流域に進出します。
山西商人は、新安(しんあん)商人と並ぶ二大商業勢力に成長しました。
その結果、山西商人の守護神である関羽の信仰は、ますます広範に浸透し、明代に編纂された『三国志演義』の古い版本のなかには、関羽死去の場面をあえて描かないものも現れました。『源氏物語』で光源氏の死が描かれないことと同じです。
あるいは、青龍偃月刀(せいりゅうえんげつとう)が池に沈むことや、関羽の愛馬である赤兎馬が死去することで、関羽の死を象徴させる版本も残っています。
明代の関帝信仰を継承した清代には、関帝は全能の神となり、孔子と並ぶ国家の最高神として位置づけられました。雍正(ようせい)八年(一七三〇年)、雍正帝は各地の関帝廟を「武廟(ぶびょう)」と呼ぶように命じ、孔子の「文廟(ぶんびょう)」と並立させたのです。
ここに関羽は、孔子と並ぶ聖人となりました。洛陽にある関羽の墓を「関林(かんりん)」と呼ぶのは、孔子の墓を「孔林(こうりん)」と呼ぶことと同じです。こうして清代には、中国の津々浦々にまで関帝廟が建てられるようになったのです。
関羽が全知全能の神となったのは19世紀
少数の満州族によって中国を支配する清は、軍事的にはモンゴルの協力を受け、経済的には歴史的・地理的に密接な関係にあった山西商人を政商として用いることで、中国を支配しました。清の外征には、山西商人が兵糧を納入し、政府の経済政策の遂行にも積極的に寄与したのです。
山西商人には諸種の特権が与えられました。とくに利潤の大きい地域の塩販売の独占権のほか、清の官金が貸与され、その莫大な資本の運用によって、山西商人は巨大な利益を得ていました。
山西商人の守護神である関帝は、清でも国家のために戦い続けます。清代の軍事報告書には、「赤い顔の長い髯(ひげ)の神が降りてきて、清軍を守ってくれたために勝利を収めた」としばしば記されています。
また、関帝廟そのものも賊軍を破るために活躍しました。
清代末期のこと、賊と戦っていた清軍は、暗闇にまぎれて攻撃してくる賊に苦戦を強いられていました。すると、近くの関帝廟が突然、燃え上がったというのです。真昼のような明るさのなか、清軍は賊を殲滅することができました。
関帝廟に行ってみると、廟宇は焼け落ちていましたが、そのなかに鎮座する関帝像は、煤(すす)ひとつ被らず端然としていました。人々は、関帝が自らの廟を燃やして清軍を助けてくれたことに感謝して、新しい廟を建立したといいます。
山西商人を媒介に明清帝国の守護神となった関羽は、武神や財神としての性格を超え、全知全能の神として深く信仰を集めていったのです。