義に厚い人物として日本人にも人気が高い関羽。「三国志」の登場人物のなかでも、主要な登場人物の一人である関羽が、中国で全知全能の神として信仰を集めるようになった理由とは何か――。120以上もの三国志関連の論文を書き上げた三国志研究の第一人者、渡邉義浩氏がその秘密を解き明かす。

※本記事は、渡邉義浩:著『三国志』(ワニブックス刊)より一部を抜粋編集したものです。

宗の皇帝から武神として崇められていた

三国志では、武将として生涯を閉じた関羽が、なぜ神様として信仰されているのでしょうか。

関聖帝君(かんせいていくん)[関帝]として祭られている関羽は道教の神です。

道教は、福〔子宝〕〔財産〕寿〔長生〕を求める現世救済の多神教で、現在も華人社会で広く信仰されている中国の民俗宗教です。

ただし、関羽が最初に祭られた唐では、関羽は仏教の神でした。

関羽終焉の地に近い玉泉寺(ぎょくせんじ)で、仏を守るための伽藍神(がらんじん)〔日本の寺院で仏を守護する「○○天」と呼ばれているバラモン教系の神々と同じ〕として祭られたのです。当時の関羽はまだ、無名の神のひとりにすぎませんでした。

関羽の地位が高まった宋では、武神として皇帝の崇拝を集めました。宋の皇帝たちは、北方民族に追い詰められたときほど関羽に高い称号を加え、宋への加護を求めたのです。

歴代の皇帝に受け継がれていく関羽への神号の授与は宋代から始まります。

関羽信仰の広がりの背景には、『三国志演義』の源流となる「説三分(せつさんぶん)」と呼ばれる語り物の普及により、「三国志」が身近になっていたこともあります。

商人から塩池を守る財神として信仰される

また、こののち関帝信仰を支えていく山西(さんせい)商人の間で、関羽への信仰が始まったことが普及に大きな影響を与えています。山西商人の信仰のなかで、関羽は財神となっていくのです。

「敵に塩を贈る」という言葉があるように、日本でも塩は貴重品でした。大陸国家の中国では、塩の採れる場所は、より一層限定されます。塩の専売は、前漢の武帝期より、早くも始まっていました。

宋代の専売方法は、塩の生産・運搬・販売を国家が行う榷塩法(かくえんほう)から、やがて塩を払い下げるときに徴税し、後は商人に任せる通商法へと移行しました。

しかも、北方民族との戦いが絶えなかった宋は、塩の専売を国境での軍需品納入に利用したのです。塩商は、銀や銅銭、兵糧や馬草を国境や京師に納入して、塩引(えんいん)と呼ばれる販売許可証を受領します。これを生産地に持参して塩を受け取って販売することにより、巨大な商圏を持つに至ります。

山西商人は、その担い手として成長しました。首都と国境の中間に位置する最大の塩生産地である解池(かいち)の塩を扱ったことが理由です。宋の財政の八割は軍事費に充てられ、税収入の五割を塩税が占めました。それを一手に取り扱った山西商人は、莫大な財を築きあげたのです。

関羽が山西商人の守護神であったからこそ、宋は戦いに際して祈りを捧げ続けました。

こうして関羽は、国家からは国を守る武神として、商人からは塩池を守る財神として祭られることになったのです。