2023年11月23日、北野武監督の映画最新作で時代劇『首』が公開された。先日「東京国際映画祭」が開催されたが、その期間中の10月30日に一足早く、TOHOシネマズ日比谷(スクリーン12)で上映された『首』。筆者はそれを鑑賞してきた。

次々と斬り落とされる「首」

本作はいわゆる「角川映画」である。角川映画の時代劇というと『天と地と』(1990年公開。武田信玄と上杉謙信との戦いを描く)に代表されるような迫力ある合戦シーンを筆者は想起する。『首』も戦国時代が舞台であるので、どのように合戦が描かれるのか、期待を膨らませて劇場に足を運んだ。

『首』の感想を記す前に、同映画の主要登場人物や時代背景について、その概要を簡単に記しておこう。『首』は、天正7年(1579)から始まる。織田信長が本能寺の変で重臣の明智光秀に討たれる3年前のことだ。

『首』の主要登場人物が、信長(演・加瀬亮)であり、光秀(演・西島秀俊)なのだが、この物語もまた「謀叛」から始まるのであった。信長に仕えていた家臣で摂津国有岡城主の荒木村重(演・遠藤憲一)が叛逆し、城に籠り、信長軍に抗戦している様子から話は始まる。

川で戦死し、首を獲られた兵士の無惨な姿。しかし、その周辺には、美しい川が流れ、沢蟹が、頭がない兵士の首の辺りを蠢いている。映画のタイトル『首』に相応しい冒頭の情景と言えようが、このようなシーンに慣れてない観客からしたら、ギョッとするかもしれない。

だが、これはほんの序の口。これ以降も、目を覆いたくなる残虐描写が次々と現出する。村重は信長軍に抗しきれず、一族・家臣の妻子などを見捨てて、逃亡。信長軍に捕縛された荒木の家臣やその妻子は、信長の「殺せ!」という厳命により、斬首されるのであった。

次々と斬り落とされる首・首・首……。そして転がる首。NHK大河ドラマ始めとする一般の時代劇では、このようなシーンはカットされるか、見えないように編集されるだろう。

例えば、2022年に放送された大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では「首桶」という巧みな道具(装置)によって、斬首された武将の首は隠されていた。が、『首』はそうではない。首が落ち、血が吹き出し、転がる様子がモロに描かれるのだ。同映画が15歳以上から見ることができるというのも頷ける。

悲惨な情景に、隣に座った見知らぬ観客(女性)は、口元を押さえているように見えた。筆者もこれまで数多くの時代劇を見てきたが、ここまで凄惨なシーンを真正面から描いた作品を見たのは初めてだった。そうした意味で、『首』は異色の作品になっていると言えよう。

北野武監督は、完成報告会見において「日本の戦国時代を、美化することなく、成り上がりや天下をとるということの裏にある人間関係や恨み、つらみなども含めて、正しくはないかもしれないけれど、一つの解釈として描けたらと思いました」(映画HP)と語られている。筆者は同映画の残酷描写は、戦国乱世のリアル(現実)を隠すことなく、真正面から描こうとした北野監督の熱情が結晶したもののように感じられた。

グロテスクな面ばかりを述べてきたが、本作の魅力は他にもある。織田信長の後継をめぐる重臣たち(光秀や、北野監督演じる羽柴秀吉)の暗闘や陰謀も描かれており、政治劇としても楽しめるのだ。そして物語は、本能寺の変へと突き進む。誰がどう動き、どのような要因で「本能寺」が起きるのか。物語の肝になる部分なのでネタバレは避けたいと思う。ぜひ劇場で確認してほしい。

北野監督の思想「死は呆気なく描く」

本作の他の特色は「男色」が描かれていることだ。信長と小姓・森蘭丸との関係。そして本作では、光秀と荒木村重が恋愛関係にあるという設定となっている。男女のラブシーンというのは一般のドラマでもよく見かけるものだが、男同士のラブシーンは、現代において、そうそう見れるものではあるまい。

本作に登場する武将や名もなき民の個性は強烈だ。それは俳優陣の演技力のなせる業であろう。特にぶっ飛んでいるのは、加瀬亮さん演じる信長だ。人の命を平気で踏み躙る「狂気」の信長。全編、尾張弁で捲し立てる信長というのも、筆者には印象に残った。一方、北野監督演じる秀吉は標準語。時代劇などでは普通、逆(秀吉は尾張弁、信長は標準語)に描くことが多いが、『首』では意表を突いたものとなっている。

政治劇というと重厚なイメージがあるかもしれないが、本作は重厚なだけではない。北野監督がお笑い芸人ということもあるのだろう、ギャグシーンが何箇所も盛り込まれている。劇場が笑いに包まれること度々であった。

羽柴秀吉が攻める毛利方の備中高松城。その城主は清水宗治(演・荒川良々)。本能寺の変で信長が死んだことを知った秀吉は、急遽、毛利方と和睦し、光秀を討つため、東方に引き返そうとする。宗治は城兵の命と引き換えに、舟上で切腹することになるのだが、それは切腹の作法に則ったものであり、非常にゆっくりとしたもの。切腹を見届けて速く引き返したい秀吉と、作法に則る宗治との対比が観客の笑いを誘うのである。

本来ならば、このようなシーンは笑うべきところではないのだが、そこを笑いの方向に持っていくというところが、北野監督の力量であろう。

本作は人の死をふんだんに盛り込んだものだが、死は「あっけないもの」として描かれている。信長の死というものも、実にあっけない。それは「生死の問題はそれだけでものスゴいことだから、飾り立てない。映画やテレビがよくやる大袈裟な死はその痛さや残酷さをかえって疎外していると思っていたので、ほかのどうでもいいシーンはこってりやって、死は呆気なく描く」(北野武監督インタビュー。同映画HP)という北野監督の思想が影響しているのだろう。

以上、見てきたように、映画『首』は異色の時代劇であり、残酷描写・政治劇・ギャグ・男色の要素が濃厚である。さまざまな方面から楽しめる映画と言える。歴史にそれほど興味がない人でも楽しめるし、北野監督の映画をこれまで見たことがないという人も存分に引き込まれることだろう。

現在、ロシアとウクライナとの戦争、イスラエルとハマスとの戦闘などが繰り返しテレビで放送されている。映画『首』も、人の死について考える一つのきっかけを与えてくれるだろう。

北野監督は前述のインタビューで「俺の映画が人をパーンと簡単に殺しちゃうのは、アメリカの海兵隊がベトコン(南ベトナム解放民族戦線)を撃ち殺す映像を見たときのショックがスゴかったからだろうね。あれを見たときに、人が人をこんなに簡単に殺すのってありかよ?って思ったし、生きている人間が考える死と実際には呆気ない死の違いを痛感して。それもあって、初期の作品から死をドラマにしたり、劇場型にはしてこなかった」と述べている。

これまでの北野作品と同様に、本作にも北野監督の死生観が如実に現れているように思う。