NHK大河ドラマ『どうする家康』の第28回は「本能寺の変」、天下統一を目前にして明智光秀に討たれた織田信長。この事件はいまだに謎があるとして、さまざまな説が示されています。今回のドラマでも松本潤さん演じる家康が「信長を殺す」と宣言していましたが、果たして……。歴史家の濱田浩一郎氏が、本能寺の変を検証します。

※本記事は、濱田浩一郎​:著『家康クライシス -天下人の危機回避術-』(ワニブックスPLUS新書:刊)より一部を抜粋編集したものです。 

徳川家康は黒幕だったのか?

天正10年(1582)6月2日、織田重臣・明智光秀は、主君の織田信長を京都本能寺に急襲、殺害した。光秀が謀反した理由については諸説あり、信長が光秀に暴力を振るった、徳川家康の饗応役を解任され恥をかかされたなどもあるが、これらはいずれも近世初期の信憑性が低い俗書に描かれたものであり、筆者は同説を採らない。

謀反の理由としては、次のようなものもあった。光秀の母は人質として、丹波八上城の波多野秀治のもとにいた。しかし、波多野秀治・秀尚兄弟は捕縛され、信長の命令で殺害されてしまう。これに怒った八上城の者たちが、光秀母を磔にして殺す。信長が波多野氏を殺したことが、母が死ぬ契機となったとして、光秀は信長を恨んだというのだ。

だが『信長公記』を見ると、天正7年(1579)八上城を攻めていた光秀は、兵糧攻めにより、波多野氏を追い詰めており、母を人質に出す必要など全くない。同書には光秀の母が人質になっていたなどの記述は見られない。

光秀の母人質説は『総見記』(軍記)、『常山紀談』(逸話集)などの江戸時代初期から中期に誕生した書物に記されており、人質であった光秀母が殺されたというのも創作であり、事実ではない。

また、本能寺の変には黒幕がいるとして、羽柴秀吉・徳川家康・足利義昭、朝廷、果てはイエズス会の名前までが挙がっているが、いずれも確固とした根拠はなく、想像の域を出ない。

家康が信長打倒の「黒幕」だったとする説であるが、かつて、信長が家康の嫡男・松平信康に切腹を命じたことを家康が恨んでいたということが、同説を補強するものとしてあるように思うが、史料を見ていくと、信長は信康の切腹を命じていない可能性が高い。逆に家康が信康を切腹に追い込んだのである。そうなると、家康が信長を恨むということはあり得ず、家康黒幕説というのは、更に成り立たなくなるだろう。

▲現在の本能寺 写真:Skylight / PIXTA

光秀が送った書状に書かれていたこと

光秀謀反の理由として、最近よく取り上げられるのが「四国説」というものである。これに絡んでくるのが、土佐を統一し、四国制圧を目指していた長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)だ。

信長と元親は、最初は良好な関係で、同盟を結んでいた(大坂本願寺や阿波の三好氏などと信長は敵対しており、その背後にいた長宗我部氏と同盟を結ぶというのは戦略として的を射たものだろう)。その同盟を仲介したのが、明智光秀だった。

ところが、天正9年(1581)頃から、信長は親三好に舵を切る。本願寺が降伏したことで長宗我部氏の利用価値が低下したこともあろうが、勢いづいている長宗我部を今度は三好氏と結ぶことにより抑え込みたいとの思いが強まったからだろう。

信長は当初、長宗我部に四国は切り取り次第と伝えていた。だが、突如として、土佐一国と阿波南郡半国の領有を認めると方針転換。長宗我部元親はこれを拒絶する。

光秀は石谷頼辰(光秀の重臣・斎藤利三の兄。頼辰の義妹は長宗我部元親の正室)を使者として元親を説得させたようだが、なかなかうまくいかず、織田信孝(信長三男)による四国征伐が間近に迫ろうとしていた。信長の四国外交の転換により、光秀の発言権や政治生命が危機に晒されていたのではないか、それを覆すために謀反という挙に出たというのが四国説である。

魅力的な説ではあるが、この四国説であっても、謀反の真因とするには未だ早計だ。天正10年(1582)5月21日付の長宗我部元親書状(光秀重臣・斎藤利三宛)には、元親が信長の提案した国分(土佐一国と阿波半国の領有)に応じる旨が記されている。

元親も信長に攻められたら、身の滅亡を招来することは十分理解しており、全面戦争直前に激突を回避しようとしていたのだ。よって、この元親の意向が、信長の耳に入っていたのか、光秀はどう受け止めたのかを慎重に検討する必要がある。

そうしたことが明らかになるまでは、四国説も謀反の根拠としてはまだ薄いと思われる(そもそもの問題として、四国外交の転換が、光秀にそれほど打撃を与えるものなのかという疑問や問題もあるが)。

筆者は、光秀謀反の動機は、取り敢えずは、光秀本人が語っていることを第一に考えるべきだと思う。実は、光秀が謀反の動機を語っている書状があるのだ。その書状は、本能寺の変後の6月9日付のもので、光秀と姻戚関係にあった細川幽斎に宛てた書状である(幽斎の息子・忠興に、光秀の娘・玉が嫁いでいた)。

この書状は、信長の死を悼んで出家した幽斎に、自らに味方するよう促したものだが、そのなかに「この度の思い立ちは、他念はありません。五十日・百日の内には近国も平定できると思いますので、 娘婿の忠興等を取りたてて自分は引退して、十五郎(光秀の息子)・与一郎(細川忠興)等に譲る予定です」とあるのだ。

つまり、信長殺害は、娘婿の忠興や自分の息子を取り立てるためだったと言っている。

もちろんこれは、細川を味方に付けるための甘言とも考えられるが、全くの嘘を言っているようにも思えない。一説には光秀は当時67歳。年齢のこと、四国出兵を求める側との政争に敗れようとしていたこと、政争に敗れたあとの自分や我が子の未来、そうしたさまざまなことが頭をよぎっていたとも考えられる(重臣でありながら、信長に追放された佐久間信盛のことも頭に浮かんだだろうか)。

▲坂本城址公園の明智光秀像 写真:jooko3 / PIXTA

光秀が起こした本能寺の変は、事件後の光秀の対応を見ても、計画性のあるものではない。信長・信忠父子が京都にいる、織田諸将は遠方という状況を狙って突発的に起されたと見てよい。ちなみに『信長公記』は、光秀は「信長を討ち果たし、天下の主になろう」として挙兵したと書く。天下の主になりたい、つまり野望説を採っている。

宣教師ルイス・フロイスは『日本史』において、光秀のことを「裏切りや密会を好む」「己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった」と記している。

光秀の軍功については、信長も「天下の面目をほどこした」(『信長公記』)と称賛しているし、織田家の生え抜きでもないのに、ここまで出世したということは、秀吉と同じく光秀も只者でないことを示していよう。好機を狙い、信長を急襲し、自らが天下の主となる野心を抱いたとしても不思議はない。

光秀の謀反の真因を一つに絞りたがる「癖」が世上にあるように思うが、人間というものは一つの動機だけで行動するものでもない。野望説や四国説との混合など、柔軟性を持って、動機に迫ることも必要ではないだろうか。