おじさんにだって可愛さがあり可哀さがある

すみっコたちの「可愛い」は「可哀想」と表裏一体なのである。それは癒しとは少し違う。「可哀い」とでも言うべきだろうか。現代の若者言葉で使われる「エモい」は、古文でいう「をかし」(感覚的かつ知的な感動)よりも、「あはれ」(情緒的な感動)に近い感情を表しているのだという。

なんの生産性も能力もなく、無用で儚く憐れな小さきものたち、それを大切に慈しむ美的な感情としての「もののあはれ」(かわいい≒かわいそう!)。その感情を、かつてのこの国の文化は、人間の道徳的なものの源泉であると考えてきた。

それならば、他者排除的にならないような「もののあはれを知る」とは、どういうことだろうか。かわいいものたち、八百万の神々のようなゆるキャラたちを愛することには、人生の重要な意味が隠されているのかもしれない。

たとえ道徳的な善悪がわからず、物事の真偽の基準がわからなくなっても、もののあはれ(エモい!可愛い=可哀想!)という感情を素朴に知る人こそが、他人や自然の心(情)がわかる、まっとうな人の道を行けるのだろう。どんなに意識が低く、志が低い人であっても。

▲おじさんにだって可愛さがあり可哀さがある イラスト:ひまりす / PIXTA

ゆるキャラが好きなんて男らしくない、おじさんのくせに恥ずかしい、と切り捨てられる時代はとっくに過ぎ去っただろう。

おそらく「おじさん」のなかにだって、なにがしかの可愛さがあり、可哀さがある。それが「男」たちの自己憐憫や現実逃避だとは思わない。この過酷な資本主義と能力主義と生産力主義の社会のなかで、無能で、無力で、無用なものとされていくのは、いったい「誰」なのだろうか。

「すみっコぐらし」の世界のように、たとえこの世界の残酷なルールは変えられないとしても、「片隅」(弱者性、非正規性)から逃れられないとしても、この世界のなかにあるスキマやゆるみを利用して、いつか男性たちも、心からの安息のなかで眠りにつけるといいと思う。