2019年に公開された映画『ジョーカー』は、現代社会の「弱者男性」が置かれた状況を象徴するような映画ではあったが、それに影響されたかのようにジョーカーのコスプレをした男性が事件を起こすなど、現実社会への余波もあったように思える。自らのフリーター経験をもとに、多数の著作を発表し、ロスジェネ論壇に関わった杉田俊介氏が考察する。
※本記事は、杉田俊介:著『男がつらい! -資本主義社会の「弱者男性」論-』(ワワニブックスPLUS新書:刊)より一部を抜粋編集したものです。
映画『ジョーカー』が映しだすもの
どこにも救いがなく、惨めで、ひたすらつらく、光の当たらない人生がある。「男」たちのなかにもまた、そういう絶望がある。せめて、そのことを想像してほしい。べつに同情してくれとは思わない。助けてくれなくてもいい。ただ、想像し、理解することくらいはしてほしい。そういう苦悶の声。声にならない叫び……。
トッド・フィリップス監督の『ジョーカー』(2019年)は、現代社会の「弱者男性」が置かれた状況を象徴するような映画だった。
『ジョーカー』の舞台は、1970年代の荒れ果てたニューヨークを思わせるゴッサム・シティ。主人公のアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は、ピエロのアルバイトで日銭を稼いで生きる男性である。
映画は、そんな彼がアメコミDCシリーズのスーパーヴィラン(敵)であるジョーカーとして覚醒していくまでの過程を描く。
本作は世界中で大ヒットし、ヴェネチア国際映画祭の最高賞を受賞。模倣犯の出現が懸念され、警察や軍隊が警戒態勢を強化するなど、現実とフィクションが入り乱れるような影響力を持った。
『ジョーカー』は、マーティン・スコセッシ監督の『タクシードライバー』(1976年)と『キング・オブ・コメディ』(1982年)を大きく参照している。ここには、かつてジョン・ヒンクリー・ジュニアという男が、『タクシードライバー』の主人公トラヴィス(ロバート・デ・ニーロ)にも影響を受けつつレーガン大統領暗殺を企てた、という経緯なども関係している。
大まかな概要を紹介しておこう。
すでに40歳近い年齢になったアーサーは、認知症を患う母親をひとりで介護しながら、恋人もおらず友人もいない、貧しく孤独な生活を送っている。
アーサーは、「どんなときでも笑顔で人々を楽しませなさい」という母親の言葉を胸に秘め、スタンダップ・コメディ〔マイクが一本置かれたステージに演者一人で立ち、社会風刺や皮肉を織り交ぜながら、観客に向けてしゃべりかけるスタイルの伝統的な話芸〕での成功を夢見ている。
しかしアーサーは、周囲の空気を壊して発作的に笑い出す、という障害を抱えていて、定期的に薬を飲んだり、カウンセリングを受けたりしなければならない。さらに物語の途中で、ゴッサム・シティの財政難から、それらの行政の支援も打ち切られてしまう。
『ジョーカー』は、さまざまな視点から読み解くことのできる作品だ。
ひとまずここでは、経済格差や障害者差別、家族介護の問題などが複雑に絡みあっていく状況の中で、ひとりの男性がいかにして追い込まれ、社会の片隅に置かれ(=周縁化され)、「弱者男性」化されてしまうか――そうした現代的なテーマを正面から扱った作品として受け止めてみたい。
どこにも属さない弱者男性たち
アーサーは、現代の弱者男性のシンボルである、と言おう。
複合的な要因から生じたアーサーの貧困(経済的貧困、失業、血縁・親族の支えがない、母親の要介護、被虐待経験、脳の障害、教育の不足……)に対しては、福祉国家による再分配の機能、あるいは社会的支援が十分に届いていない。
そんなアーサーに対し、次のような批判がしばしば見られた。いくら貧困のどん底にあり、悲惨な状況にあったとしても、彼は黒人や有色人種ではなく白人男性であり、また女性や性的マイノリティでもない、その点では本当の意味での犠牲者や被害者ではない……と。
現代は、社会的な差別や不平等を是正することを求める政治的正しさ(PC:ポリティカル・コレクトネス)が重要視される時代である。だから『ジョーカー』に対して、そうした疑問や批判が寄せられるのも当然のことだ。
とはいえ、義理の父親から脳を損傷するほどの虐待を受けたサバイバーで、周りから理解されにくい障害があり、認知症の母親を家族介護せねばならず、福祉と医療を打ち切られ、貧困状態にある中年男性に対して、彼が「男」であるという一点において、そのような批判や非難が投げつけられてしまうとは、どういうことなのだろう。
そこでは、苦境に置かれた男性の弱さ、脆弱(ぜいじゃく)性、社会的なコミュニケーションに入ってこられない声なき叫び声が、この世界に存在しないものとして、かき消されてしまっている。
そもそも、アーサーのような意味での弱者男性たち、その鬱屈や困窮をうまく捉えられず、どこにも位置づけることができないということ、そこに現代社会の深刻な問題点があるのかもしれない。
それぞれの複雑な理由によって貧困、剥奪感、尊厳破壊などを背負わされた「弱者男性」たちの絶望と苦悶を的確に論じるための言葉や理論が、いまだに存在していないのではないか。
アーサーのような存在は、マイノリティともマジョリティともつかない、ある種の曖昧な存在であり、境界的な存在であると言える。
こうした曖昧で見えにくく、境界的な弱者性のあり方こそが、現代社会の問題点の最前線(の一つ)なのではないだろうか。
マジョリティでもなくマイノリティでもなく、あるいは(1%の超富裕層が99%の多数派を支配すると言われるときの)1%でもなく99%でもない、「残余=無」(スラヴォイ・ジジェク)または「残りのもの」(ジョルジョ・アガンベン)としての現代の弱者男性たち……。