2023年の大河ドラマ『どうする家康』が、ついに最終回を迎える。個性豊かな家臣団に支えられた徳川家康だったが、そのうちの一人、板垣李光人さんが演じた井伊直政。第43回「関ヶ原の戦い」でも描かれたが、島津勢の撤退時に負傷しており、2年後の1602年に亡くなった。歴史作家の桐野作人氏が、直政が負傷した関ケ原での状況を解説します。
※本記事は、桐野作人:著『関ヶ原 島津退き口 -義弘と家康―知られざる秘史-』(ワニブックスPLUS新書:刊)より一部を抜粋編集したものです。
井伊直政は誰に狙撃されたのか?
「島津の退き口」で、井伊直政(上野国箕輪〈みのわ〉12万石)に触れないわけにはいかない。通説では、直政は家康の命で島津勢を厳しく追撃したところを銃撃されて負傷したと言われている。
たとえば、義弘の従軍記には、押し出した義弘主従が福島正則勢をかすめて通過したのち、伊勢街道を南下するが、井伊直政が松平忠吉とともにそれを追尾したところを銃撃されて負傷し、落馬したとしている(「惟新公関原御合戦記」)。
また徳川方の史料も、騎乗した義弘を真ん中に200人ばかりが退いているのを直政が見かけて、「是非兵庫頭(義弘)とくみ(組)候はんとのり廻し」しているとき、五間(約9メートル)離れたところから狙撃されたと書いている(「慶長記」)。状況がやや不明だが、義弘主従が退却しているところに攻めかかったということだろう。
しかし、直政が銃撃された場所については異説がある。まず、島津方の筆者不詳(家老の伊勢貞成かその周辺か)の書上によれば、松尾山を攻め下った小早川秀秋勢が大谷吉継勢を撃破したことを述べたのち、次のように記す。
「然る処に関東騎馬武者が大道に追い来たったのを惟新様がご覧なされて、大野正三郎に彼の武者を撃ってみよと仰せ付けられた。四匁玉の持筒(もちづつ / 義弘直轄の鉄炮)で猪の毛やすりをすったのを下された。(大野は)右の鉄炮を頂戴して、備えの前に進み出て、右の武者二、三騎を射落とした。この時、井伊掃部(直政)殿も正三郎の鉄炮にお当たりになったと申された」
これによれば、義弘はまだ退き口に移る前で、小関村の本陣にいるときである。直政は家康御曹子(おんぞうし)で女婿の松平忠吉を奉じて、この日の先手だった福島正則勢に偽って、忠吉初陣の物見と称して最前線に抜け駆けし、西軍(島津方とも宇喜多方とも)に向かって発砲した。徳川勢が開戦の口火を切るのが目的だったといわれている。
つまり、直政は忠吉とともに前線に近いところに布陣していたのは間違いなく、西軍の敗走によって、東軍先手の諸勢が競って追撃に移ったとき、直政も負けじと前進して島津勢の前を通過したところを銃撃されたと考えられる。
この書上でもうひとつ面白いのは、直政を狙撃したのは通説でよく知られた柏木源藤(かしわぎげんとう)ではなく、大野正三郎としている点である。義弘の持筒を使ったところをみると、大野はおそらく義弘の被官だろう。義弘じきじきの指名だったのは、よほどの名手だったに違いない。
直政狙撃については、もうひとつ有力な証言がある。石田三成が敗走して、島津勢の陣所が四方から東軍に取り囲まれた状況で、義弘の本陣には旗本衆50~60人が一所に集まって一合戦しようと決めていたところに、直政が騎乗して押し寄せてきた(「帖佐彦左衛門宗辰覚書」)。
「敵の大将飯侍従殿(井伊直政)と見て、黒馬に大総(おおぶさ)を掛けさせ、白糸威(おどし)に小銀杏(こいちよう)の前立を付けた甲を着けて、長刀を抱えて片手を縄(手綱か)にかけ、義弘様の御前近くまで馬を乗り入れて大音声で言うには、『どうして手間どっている。兵庫(義弘)を打て』と呼ばわったところ、川上四郎兵衛殿の被官柏木源藤が進み出て、鉄砲の大きな音をあげて大将の胸板上巻(総角(あげまき))を撃ち通せば、馬から下にどっと落ちた。敵の軍兵は大将が撃たれたのを見て驚き、あわてふためいた。殿様(義弘)はそれをご覧になって『時は今だ。早く切り崩して通れ』とのお下知で、大勢の真ん中を切り通した」
ここでも、直政は義弘の本陣の前で狙撃されて落馬している。違うところは狙撃者が柏木源藤だとする点である。
帖佐宗辰は義弘の古くからの家臣である。義弘が上方での経費を賄(まかな)うため、摂津・播磨両国に在京賄(まかない)料として1万石を与えられたが、その代官を務めている。また伏見屋敷で忠恒が伊集院幸侃を殺害したとき、その急報を義久に伝える密使となって国許に下向している。関ヶ原合戦でも義弘のそば近くにいて無事に帰国しているので、この覚書はある程度、信がおけるだろう。
なお、直政の負傷部位だが、井伊家の史料によれば、玉は鎧の右脇に当たったが、頑丈だったため貫通せずにはね返り、右腕にあたった。直政はこの痛手に鑓を落とし、苦痛のため落馬したという(「井伊慶長記」)。
以上から、直政が負傷するまでの経緯は、通説と異なる状況だった可能性がある。直政は島津勢の陣所近くで、その前面に立ちふさがったところを狙撃されたのである。このことは同時に、退き口に移った義弘主従は組織だった追撃を受けていない可能性が高いことを示している。
戦後は家康と島津の和睦交渉に奔走した直政
後日談になるが、直政は戦後、家康と島津氏の和睦交渉に奔走している。翌慶長6年(1601)3月、直政は義弘・忠恒父子に書状を送り、和睦成立のために義久の上京を促し、自分が島津家のために働くことを伝えている。「何もお気遣いはいりません。そのうえ、秘密の約束や表裏の隠し事もありません」とも書いており、誠意にあふれている。
また直政自身が負傷させられたにもかかわらず、島津の退き口を絶賛しているのが面白い。退き口の途中、東軍に捕らえられて在京していた義弘家臣の本田助允(すけのじょう)に語ったところによると、「今度お退きなされ候始末比類なし、ごほうび以(もつ)ての外(ほか)に候」と語ったという。
直政の戦国武将らしい潔さと人柄を感じさせる逸話だが、合戦から1年半後、直政は帰らぬ人となった。時期から考えて、狙撃での負傷が原因だったと思われる。
なお、直政の僚将、本多忠勝も愛馬を島津勢に鉄炮で撃たれたという(『譜牒餘録(ふちようよろく)』上巻)。
「関原(せきがはら)、忠勝名馬に乗り、以て先陣を進み力戦す、島津兵鉄炮を放ち、忠勝の馬に中(あた)る、梶金平(かじきんぺい)おのれの馬を以て忠勝に授く」
愛馬を撃たれた忠勝は、家来の梶金平の馬に乗り換えた。忠勝の愛馬は「三国黒(みくにぐろ)」という黒毛で、徳川秀忠から拝領したものだった。もっとも、この記事だけでは忠勝が銃撃された場所がどこなのか不明である。