NHK大河ドラマ『どうする家康』では、徳川家康の正室・築山殿こと瀬名が、壮大な夢を語り平和への道を模索していた様子が描かれていました。しかし、その計画が織田信長の知るところとなり、第25回「はるかに遠い夢」で瀬名と長男・信康は命を落とすことになりました。憲政史家・倉山満氏によると、この事件は「信長の命令」によるものとされてきましたが、その実態は徳川家内部の派閥争いを収拾するための処置だったようです。

 すべてを“信長”に押しつけた徳川家

通説では、長篠の戦いで徳川家康は織田信長に頭が上がらなくなります。信長の版図は二十数か国に及びますから、絶大です。もはや対等の同盟関係などと言えない力関係になりました。

結局、徳川は存在そのものが「信長の盾」であり、小競り合いでは負けっぱなしなのです。そのあいだに信長は勢力を膨張させていったのですから、差がつくのは当然です。

そして天正7(1579)年、正妻・築山殿の殺害事件、長男・信康の切腹事件が起こります。いずれも長らく、信長の命令によるとされてきました。

▲築山殿(西来院蔵) 出典:Wikimedia Commons

そのキッカケとなったのが、信康の妻であり信長の娘である徳姫が書いた十二ヵ条の訴状、つまり築山殿と信康を糾弾する文書です。それを信長に取り次いだ酒井忠次のことを、家康は一生許さなかったという話もあります。

ところが、真相は全然違うようです。

最近の研究によれば、家康が遠江に移り、三河には息子の信康がおり、そのおかげで二つの派閥ができていて、それを収拾しなければならなくなったのが、信康切腹の原因だろうと考えられています。徳姫と築山殿、つまり嫁姑の折り合いが悪いことに舅の信長が怒り狂ったというのは後世の創作で、信長なら「それくらいやりかねなかったのではないか」と納得してしまったのだろう、ということです。要するに「なんでもかんでも信長のセイ」ということです。

ちなみに、信長側の記録である『信長公記』には、酒井忠次が取り次いだ件も、信康切腹事件も築山殿殺害事件も出てきません。酒井が「十二ヵ条の訴状」を安土城まで取り次いだとされる1579年の『信長公記』を見てみましょう。

信長は、正月を安土城で過ごしていますが、その後は安土城を離れ、2月は二条に新造営した城に、3月~4月は摂津・伊丹へ出陣して過ごしています。再び安土城に入るのは5月3日のことです。

十二ヵ条の訴状を酒井忠次が信長に届けた日は明らかではありませんが、築山殿殺害が8月29日ですから、十二ヵ条の訴状が本当だとすれば、信長がそれを知ったのは5月から8月の長くても3ヶ月間ということになるでしょう。

たった3か月で、しかも娘と姑の喧嘩を理由に、同盟者の息子を殺させるでしょうか。常識で考えて、内政干渉をするわけがありません。

「本能寺の変」で領土を広げた家康

天正10(1582)年、信長は念願の武田討伐を果たします。戦功のあった家康は駿河を拝領することになります。駿河だけとは、なんとも信長はケチです。ケチが悪いかどうかは別にして、家康はそのお礼に安土城に上がります。

これは事実上、忠誠を誓う儀式です。この時点で家康は、完全に信長の家臣となります。

家康は、信長に「堺の街を見てこい」などと言われて出かけていっている最中に、同年6月2日の早朝に本能寺の変が起こります。

明智光秀の謀反によって信長が死んだ第一報を聞いて、家康が「信長公に御恩があるから殉死する」と言ったという話があります。成立年は不詳ですが、石川忠総(1582〜1650年)という近江国膳所藩主などを務めた人物が書いた『石川忠総留書』に出てくるエピソードです。おそらく、百パーセント噓です。石川忠総は大久保忠隣の次男で、大久保忠隣は『三河物語』を書いた大久保彦左衛門の甥です。

▲明智光秀像 写真:skipinof / PIXTA

家康は急遽、三河の岡崎城へ帰還することになりますが、この道程は「神君伊賀越え」と呼ばれて、三河一向一揆、三方原の戦いと並んで「三大危機」のひとつに数えられています。このときに家康一行を助けた服部半蔵が、「半蔵門」の由来になったなどというウンチクはともかく、家康の動きが素早すぎます。

本能寺の変は、明智光秀が権力の空白地帯をつくりだすことを目的に起こした変です。家康としては一刻も早く逃げたい気持ちはわかります。実際、命が助かり、本領に戻れました。

問題は、その先です。

本領に戻った家康は、旧武田領の甲斐信濃に攻め込んで制圧しました。これで三河・遠江・駿河と合わせて、5か国の大大名です。

これまで、当時の家康の行動は「信長公の敵討ちをしようと思ったら、秀吉が先に光秀を討っていたものだから、代わりに甲州信濃を制圧した」と説明されてきました。

では、甲斐と信濃はそのとき、誰のものだったでしょうか。

織田領です。

ここを制圧するということは、20年の盟友である織田家に弓を引いているのです。完全な火事場泥棒、侵略戦争です。

ところが、明智光秀を「謀反人」と言う人はいても、家康を「裏切り者」と罵る人はいません。これがプロパガンダというものです。

ついでに言うと、これは秀吉に了解をとってやったことだそうです。二人して、光秀一人を悪者扱いし、利権の山分けをしている格好です。

本能寺の変で家康は焼け太りしました。桶狭間の戦い後、今川領を食いまくった仕業の再現です。かくして家康は、今川と武田の旧領土を全部わがものにしていきました。