2024パリオリンピックも後半戦に突入しているが、今大会に国として招待されていないのがロシアだ。プーチン大統領がこれまで恐れていたとされたアレクセイ・ナワリヌイは、今年の2月に獄死したことで国内での権力基盤は万全のように見えるが、歴史作家・島崎晋氏によると、彼が恐れている存在は他にもいるらしい。

※本記事は、島崎 晋:著『呪術の世界史 -神秘の古代から驚愕の現代-』(ワニブックス)より一部を抜粋編集したものです。

「戦うシャーマン」アレクサンドル・カビシェフ

最近はテレビへの露出が減ったが、日本にも霊媒が存在する。青森県のイタコがそれで、死者の霊を降ろして憑依させ、死者の言葉を伝える口寄せである。

下北半島のむつ市にある恐山()はイタコの聖地とされているが、普段は青森県各地、それぞれの地元で暮らしている。イタコが恐山にやって来るのは、毎年7月20日から24日まで開催される恐山大祭と、10月上旬の3連休に開催される恐山秋詣りのときだけだ。

しかも、常時活動をしているイタコは4人、本来の姿である目の不自由なイタコに至っては、わずか一人にすぎない。

ここまでイタコが減少した理由は複合的である。根本的なところでは、食糧事情や衛生事情の改善で失明する女性が減ったこと、たとえ失明しても特別支援学校に通えば、他に就労の道が開かれるようになったことが挙げられる。

目の不自由な人が減ったのであれば、そうでない女性から募るしかないが、巫技を伝授できる師匠イタコが途絶えた以上、民俗調査の一環として残された記録をテキストに育成するしかない。

普段は地域社会のカウンセラーのような役割を果たしているので、素養のない人間、外部の人間でも受け入れるのか、という点も大きな課題となりそう。恐山のイタコが絶滅危惧種であることに変わりはない。

▲恐山(青森県) 写真:けんたろう / PIXTA

霊媒や口寄せは、国際的にはシャーマンと呼ばれる。イタコが降臨させるのは先祖の霊が基本だが、海外のシャーマンは間口が広く、自然界の精霊に降臨を願うことが多い。そのなかには政治的な影響力を持つ者もいて、ロシアのアレクサンドル・カビシェフはその代表格である。

ハーバード大学研究員ビタリ・シュクリアロフが、『ニューズウィーク日本版』(2019年11月19日配信)に寄稿した記事「プーチン退治を目指す霊媒師が掻き立てる地方の〈怒り〉」によれば、カビシェフは東シベリアにあるサハ共和国のヤクーツクの人で、日頃からプーチンを「悪魔」と呼び、「戦うシャーマン」を自称していた。

そのカビシェフが悪魔退治と称し、首都モスクワまで8000キロの距離を歩くと宣言して、2019年3月にヤクーツクを出発。道中で支持者を増やしてモスクワに入り、大勢の人びとが見守るなかで悪魔祓いをする計画だったが、行程の3分の1を踏破した同年9月、バイカル湖畔で覆面姿の治安当局者により身柄を拘束された。

一時は同行する支持者が1000人にも達し、その様子を撮影した動画が数百万回も再生されたことから、当局が動いたようである。

シャーマンをプーチン政権のスポークスマンに?

また、AFP通信社から12月14日に配信された記事「プーチン氏の〈退治〉を目指した霊媒師、再び旅に出て拘束される」によれば、診察のため精神科病棟に移送されたカビシェフは、「健全な精神状態ではない」と診断され釈放されるが、同年12月8日、同行者2人と犬4匹を連れて再びヤルクーツクを出発。2日後の10日に身柄を拘束された。

同じくAFP通信社が2020年6月6日に伝えるところでは、再び釈放されたカビシェフは三度目の旅に出ることを発表したために自宅で拘束され、同年5月には精神科病棟へ移送された。6月2日にはヤクーツクの裁判所が強制収容の延長を決定したことから、無期限の収容状態が現在も続いている。

▲アレクサンドル・カビシェフ 出典:EseniaSofronova / Wikimedia Commons

プーチンが恐れた相手と言えば、2024年の2月に獄死したアレクセイ・ナワリヌイの名が一番に思い浮かぶが、「戦うシャーマン」カビシェフも、それに引けを取らないように見受けられる。

ナワリヌイの支持者が都市部に集中していたのに対し、カビシェフはプーチン支持者の多い地方社会で非常に高い知名度を誇る。

このため、「ロシア当局は彼の霊力を本気で恐れているのか?」という問いに対し、ビタリ・シュクリアロフは「プーチン支持者が地方に多く、彼らにとっては首都での数千人規模の集会より、一人のシャーマンの言動のほうが遥かに影響力を持ちかねない」と返答している。

プーチン政権は第2、第3のカビシェフが現われることを恐れたか、2018年にシベリア南部トゥワ共和国で初めて開催された全ロシア・シャーマン会議で、ロシアの最高位シャーマンに選ばれたカラウール・ドプチュンウールの言動に関し、大々的に報道するようになった。

同氏は「クマの精霊」と呼ばれるシャーマン集団の指導者でもあり、2023年10月5日に行なった儀式では、リズミカルに太鼓をたたいて呪文を唱えながら「ロシア国民の幸福、健康、繁栄」を祈願するかたわら、ウクライナ侵攻中のロシア軍に祝福を与え、ウクライナのゼレンスキー大統領を「敵」として糾弾、さらにはウクライナ国民によるゼレンスキーの追放を予言するなど、プーチン政権のスポークスマンのごとき発言を繰り返した。

シャーマンによる影響力を、同じくシャーマンで相殺しようとの思惑が見え見えである。最高位シャーマンの地位など過去に存在した試しがないこともあり、案の定、ロシア国内では、不要な官僚的ポストとする批判の声が上がっている。